ちゃおチャオブログ

日々の連続

江南周遊(12)上海浦東空港着。

海浦東空港は同じ形の空港ビルが向かい合って並んでいる。
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又新しいターミナルビルを作っているようだ。
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滑走路を走行し、空港ビルに向かう。今日の運航はほぼ満席だ。
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空港ビルの前には沢山の旅客機が駐機している。
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数年前、まだ100名山を登っていた頃、ここ上海にはよくやってきた。年に4-5回は来ていたか・・。成田、羽田から3時間程度で来れる至近距離。沖縄のちょっと先と言った感覚だった。人民広場の裏通りに腕の良い按摩店があって、当時山登りで痛めた膝を中国按摩で直してもらうために、何回かやってきて、この浦東空港は昔からよく来ていた場所だ。ここが出来てからもう30年ほどになるか・・。

それ以前は虹橋という名前の空港で、市内に近い虹橋区にあり、当時この地区は超高層ビルのラッシュ状態だった。その後中心の国際空港がここ浦東に移り、虹橋は寂びれるかと思っていたら、中国新幹線網が瞬く間に整備され、その虹橋の地下に巨大な駅が出来て、虹橋空港も又、東京の羽田のような位置づけで、近隣国との国際空港として再び活況を呈するようになった。

この虹橋からほど近い距離、上海中心部の直ぐ横を黄浦江というかなり大きな川が流れている。この川の土手は上海バンド(外灘)という名前の有名な遊歩道になっていて、大坂で言えば道頓堀のような感じの川だ。勿論川の大きさから言えば、道頓堀とは比較にならない程幅広で、東京の墨田川位の川幅はあるのだが、当時まだこの浦東空港ができる以前、このバンドから黄浦江の対岸は、雑種地のような場所で、これから開発が始まろうとする処だった。

それから来るたびにこの地区、浦東地区の開発が進み、にょきにょき超高層ビルが建てられるようになり、それから暫くして、この浦東区の郊外に国際空港が出来、日本からの飛行機はそちらに着陸するようになった。浦東国際空港が開場した時点で、アクセス鉄道が敷かれ、都心部では地下に潜るが、今ではその浦東地区、40年前までは野つ原だったその場所が、今ではニューヨークのマンハッタンを思わせるような超高層ビル群になっている。

田中元総理が北京の人民大会堂で日中国交回復を行ったのは1972年、もう半世紀も前のことで、総理はその時この上海まではやって来なかったが、如何なブルトーザー総理と言えど、20年後、30年後のこの上海の大発展は想像できなかった違いない。日中国交回復直後、日本人はブルトーザー総理を放逐し、その後の平成に入ってからのバブル崩壊の後遺症にも苦しみ、この30年間を合計しても10%の成長率も無かったが、中国は今でこそ6%台に低下しているが、鄧小平の初期の頃は毎年10%を超える程の高度成長で、田中元総理訪中の頃のGDPは日本の僅か10%程度だったのか、この半世紀の間に日本を追い抜き、今では日本の4倍以上のGDPを上げている。

嘗てのアジアの中心、日本の東京は首位の座から滑り落ち、今やその中心は上海に移りつつある。滑走路も空港ビルも利用客数も成田を上回り、将来超音速旅客機SSTがアジアと米国を結ぶすれば、最初に結ばれるのは成田ではなく、ここ上海になるだろう。滑走路を移動する機は右に大きな空港ビルを眺め、同じタイプの二つのビルが向かい合って建っているが、ANAはその一方の、JALとは違う同型のビルに横付けし、ブリッジが延ばされた。その歩行橋のあちこちに見慣れたマーク、HSBC,を見ることが出来た。



最後のモニターを見る。現在時刻12時54分、東京とは時差1時間
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同型タイプの空港ビルが二つある。ANAはどちらに着くだろう。
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空港ビルをぐるっと半周し、反対側に出る。
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シートベルトサインが消えて、間もなく出れる。前の座席の男の人が同行のナベさんだ。
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