ちゃおチャオブログ

日々の連続

江南周遊(24)無錫・「蠡園」にて、樊噲と范蠡。

回廊の見晴らしの良い場所で同行のナベさんの記念写真を撮る。
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回廊の途中には、休憩用の東屋が所々に造られている。
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ああ、早春の梅か・・
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この回廊の謂れが記載されている。簡体字は読めない!
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今の中国語は漢字ではなく簡体字を使っている。難しい画数の漢字を簡単な文字に略して同じ音韻と意味を備えている。毛沢東時代、中国人の文盲率が高く、人民の識字率を手っ取り早く上げる為には、難しい漢字を覚えさせるよりも、略して簡単な文字にした方が、早く覚えられる、との発想でこうした簡体字が出来たのだ。今の日本人には文字の略し方、そのルールを知っていないと、簡体字を見ても直ぐには読めないし、意味も理解できない。

一方で、日本人が使用している漢字よりも更に難しく複雑な画数を持っているのが繁体字で、正に繁雑な文字だ。この繁体字は台湾とか、シンガポールの華僑、その他、共産中国以外の中華系の中国人が使用しているが、繁体字は昔の文字であるから、日本人が見ても、意味も読み方も大体は理解できる。しかし、幾ら昔からの習わしとはいえ、こうした難解な文字を覚えるよりは、日本の漢字を覚えた方が、人々にとっては楽であり、時間の節約にもなると思うのだが、かの国の人々は頑なに墨守している。

さてその繁体字であるが、時代が遡る昔であれば昔ほど、時代が古ければ古いほど難しい文字を使っていたのではないかと思えるのだ。実は自分自身も大失策をした。それは樊噲と范蠡のことであり、越王句践の宰相を樊噲と理解していたが、それは大きな間違いで、実際の名前は范蠡が正しい。二人とも紀元前に活躍した英雄、英傑で、呉越同舟の頃活躍した范蠡前漢の頃活躍した樊噲よりも300年も前の人物なのだ。西施と駆け落ちし、この無錫の地に二人の終の棲家、スイートホームを作ったのは樊噲ではなく、范蠡だったのだ。

この太湖に面する水上庭苑は、最初の素園から始まって、幾つかの庭園が複合的に連なってできているが、その中心の成すものは「蠡園」で、それは范蠡の名前から採られたものだ。同行のナベさんの記念写真を撮って、回遊路を進んできて、園の正面に来た時、正面に石碑が立っていて、そこには「蠡園」と刻まれている。・・ああ、大間違いをしていた!ここは樊噲ではなく范蠡の地だったのだ。

うーん、難しい。昔の中国人はどうしてこんな普通には読めもしないような難しい文字を使うのか!改めて認識しよう。紀元前1世紀、前漢の英雄「樊噲」は「はんかい」、越王句践の軍師「范蠡」は「はんれい」、なのだと。全く中国繁体字には頭がどうにかなりそうだ。最も簡体字に慣れ親しんでいる現代中国人には、「はんかい」も「はんれい」も全く読めず、最初からお手上げだろう・・。



連子窓もあるが、この様式は中国が先だ。仏教寺院にあって、日本が後から真似をした。
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回廊をツアーの皆さんと歩いていく。
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太湖の良く見える場所に来た。何か石碑が立っている。
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む、「蠡園」・・。ああ、ここが范蠡(はんれい)にちなんだ庭園「蠡園」だったのか・・。今まで自分は何を勘違い、間違っていたのだろう・・。
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