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日々の連続

能登の春(18)總持寺祖院巡拝。

経蔵の前には奇麗な小川が流れていて、その正面に大きな山門が構えている。
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小川沿いに昔の道があって、室町時代の高僧が羽咋のお寺から毎朝50キロの道を歩いて、読経にやってきたとのこと。
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中興の僧侶がこの道を毎日羽咋の寺とを往復したとのこと。この寺には山岡鉄舟の書が残されているとのことだが、鉄舟が毎朝品川から三島の龍沢寺に通った故事を思い出す。
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山門の前からは経蔵が見える。
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總持寺祖院は広い境内である。先刻入ってきた入山門がこの寺の山門かと思っていたが、そこは単なる入寺の門で、この門の中が寺の境内で、ここから先は入寺料を取る、との仕切り門に過ぎなかった。この寺の本当の山門は、経蔵の100メートル100程先に構えている豪壮な門構えだ。二層の大きな山門はもう一つの本山、横浜鶴見の總持寺大本山山門に匹敵する大きさであり、京都大徳寺南禅寺を凌駕する程の大きさである。

近くへ行ってみると、数年前に発生した能登地方の大地震で被災し、現在修復作業中で中には入れない。この山門以外にも山内の建物多くが被災し、現在随所で修復工事が行われているが、完工奉納会は2年後の2021年に行われるとのことである。地震の被災がどの程度だったかは想像するしかないが、建物が現存している状態より、明治の大火災と比べたら、最悪の状態ではなかった。

明治中葉の大火災は、先ほど見てきた経蔵と一部建物を除いて、この山内の殆ど全てを灰燼に帰した。全山焼け落ちたのだ。本来この寺は福井永平寺と並び称せられる曹洞宗の二大総本山で、鎌倉末期の1300年代開山の曹洞禅の一大祖廟でもあったのだが、全てが焼け落ちてしまった。その後明治の末に、總持寺大本山はこの地より横浜鶴見に移転し、ここは別格大本山總持寺祖院として現在に至っている。従って、今ある建物はその火災後に再築されたもので、現在ここにある火災以前の古いものは、経堂と山際の上の方にあった太祖堂位で、残念ながらこの山内には国宝や重文建造物はない。今見える巨大な山門も、昭和の建物だ。

境内は現在各所で再築工事中で、拝観も指示された巡回路に従って回ることになる。経蔵のすぐ前に小川が流れているが、これは名水100選にも選ばれている清水のようである。その小川に架かる白字橋を渡った先に山門があるのだが、工事の塀で囲まれて、それ以上先には進めない。指定された順路に従って進んでいくと、次に鐘楼、白山堂などが見えてくる。白山神社の御堂だ。昨日輪島市内で重蔵神社でも感じたが、ここでも又神仏習合の名残を見る。聖徳太子の頃仏教が大陸から入ってきて、それ以前の国内の地霊神信仰と結びつき、習合し、本地垂迹となって明治まで神仏は一緒に祀られていたのだ。ああ、曹洞宗の祖廟に白山比咩(ヒメ)神社。実に加賀と能登の合体だ。



ああ、境内には神社も見える。白山神社だ。
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先刻の経蔵。江戸時代、大坂で造られたそうだが、均整の取れた良い形をしている。
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ああ、これは火災を免れた伝燈院、太祖堂だ。
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法堂(本堂)付近から見る山門。
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