バスツアーに付き、本来の3番4番を後回しにし、5番札所地蔵寺にやってきた。

ここは鳴門の隣町、板野町にある。

本尊は余り聞き慣れない名前だが、勝軍地蔵菩薩。

歩き遍路は第一番霊山寺から順番にお寺の番号順にトボトボ歩いて回るのだが、巡礼ツアーの場合は、交通ルートの便不便によって、順番を変えて行くことになる。だから、本来次に参詣すべきは第三番金泉寺なのだが、この寺は今日の最後に訪問することにし、次に向かったのは第五番地蔵寺だ。このお寺は鳴門の隣町、板野町にあって、ツアーバスの順番としては、好都合なのだろう。尤も、順番、コースを決めるのはドライバーではなく、我々を案内する先達さんの役割だ。後で分かったのだが、このもう一つ先のお寺で昼食となり、その時間的な関係で、ここ地蔵寺を一つ前の札所に組み入れたのだと思う。
先達さんは姫路出身の山中さんという60前後の人で、云わば、この先達を生業にしているような人で、先週まで坂東観音霊場を案内し、今日、姫路の自宅から車でやってきたとのことだ。これが終わると又次の霊場巡りの案内に出かけるとのことである。この四国霊場も過去何十回と来ていて、彼の持っている御朱印帳も印が重なって分厚くなっている。だからどのお寺に何があって、どの様な由緒があるのかは、もう空でそらんじている。お経と同じだ。お寺に到着する前のバスの中で、寺の縁起など解説し、大変勉強になった。
この地蔵寺は名前の通り、お地蔵さんを祀る寺で、本尊は甲冑を身にまとい、馬に跨った勝軍地蔵菩薩で、我々がイメージする野辺に微笑むお地蔵さんとは大分異なった地蔵佛だ。その勝軍地蔵は弘法大師が自ら彫ったものと言われ、名前からして古来より武将の帰依も多く、源義経も戦勝を祈願したとのことである。この寺も前の極楽寺同様、戦国末期の天正年間、長曾我部軍によって焼き討ちに遭い、堂宇はことごとく焼失したが、その後、阿波藩主蜂須賀によって再建されたとのことである。
先達さんは姫路出身の山中さんという60前後の人で、云わば、この先達を生業にしているような人で、先週まで坂東観音霊場を案内し、今日、姫路の自宅から車でやってきたとのことだ。これが終わると又次の霊場巡りの案内に出かけるとのことである。この四国霊場も過去何十回と来ていて、彼の持っている御朱印帳も印が重なって分厚くなっている。だからどのお寺に何があって、どの様な由緒があるのかは、もう空でそらんじている。お経と同じだ。お寺に到着する前のバスの中で、寺の縁起など解説し、大変勉強になった。
この地蔵寺は名前の通り、お地蔵さんを祀る寺で、本尊は甲冑を身にまとい、馬に跨った勝軍地蔵菩薩で、我々がイメージする野辺に微笑むお地蔵さんとは大分異なった地蔵佛だ。その勝軍地蔵は弘法大師が自ら彫ったものと言われ、名前からして古来より武将の帰依も多く、源義経も戦勝を祈願したとのことである。この寺も前の極楽寺同様、戦国末期の天正年間、長曾我部軍によって焼き討ちに遭い、堂宇はことごとく焼失したが、その後、阿波藩主蜂須賀によって再建されたとのことである。
たらちねの大銀杏と呼ばれている。

地蔵寺山門。無尽山と書いてある。案外古風な山門だ。
