ちゃおチャオブログ

日々の連続

能登の春(35)イザ、軍艦島へ!

鉢ケ崎から珠洲市街地を通り抜けて、次にやってきたのは軍艦島。左手に珠洲の町が見える。
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軍艦島の正式名称は見附島。空海伝説のある島だ。
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本当にどこから見ても軍艦のようだ。
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島と空海との謂れなども詳しく説明されている。
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能登半島最北端の町「狼煙」でお昼を食べてから、須須神社へ立ち寄ったり、鉢ケ崎の浜辺を歩いたりして、午後の時間も大分押し詰まって来た。今日は後1か所軍艦島を回ってから宿舎に戻りたい。今日の内に半島北半分を回っておけば、明日はゆっくり根元の方、七尾辺りまで足を延ばせられるだろう。そうすれば、今回の2泊3日の旅で、ぐるっと半島1周したことになる。

ここは鉢ケ崎海岸は、既に珠洲市の郊外で、今まで走ってきた、広域町村合併の旧町村の町の佇まいとは違って、多少は都市の雰囲気、ハイセンスがどことなく感じられる街道になってきた。と言っても元々本体の珠洲市自体が合併前の人口は2-3万も無かったのだろうから、地方の小都市に過ぎない。だが、先程の珠洲焼会館で見てきたように、この町の歴史は案外古いようだ。

かの万葉歌人大友家持が越中守として国府高岡に赴任していた当時、小舟に乗って富山、能登の津々浦々を回り、この珠洲の湊までやってきたのは万葉集にも残されている。その当時から既にこの辺りでは町を形成していたと思われる。荘園や守護大名戦国大名のいなかったこの辺りの人々は案外自由で闊達な生活を送っていたのではないか、とも想像される。帰宅後のことではあるが、家持にはこんな歌も残されていた。

< 珠洲の海に 朝びらきして漕ぎ来れば 長浜の浦に月照りにけり >

地元の人には近海魚で有名な蛸島漁港を通り過ぎると、珠洲の市街地に入る。道路沿いに人家が立て込んでいて、残念ながら家持が詠んだ美しい浜辺は見ることはできない。長浜に沿った細長い町筋であるが、そのほぼ中心地辺りに珠洲の中央郵便局があり、左折して海岸に出たが、そこは既に砂浜ではなく埋め立て地になっていて、前方に道の駅「すずなり館」も見えたが、今回はパスして先に急ぐことにした。ここからは又国道249号線になり、この道を真っ直ぐ行けば軍艦島だ。

珠洲の古い市街地を採り抜けた先に軍艦島の公園があった。かなり広い駐車場を取っていて、ここが半島の主要な観光名所であることは、この駐車場の広さを見ても判断できる。大型バスも何台か駐車している。海岸に近い場所に車を停め、松林の中を歩いていくと、前方、海の中に背の高い岩礁が見えてきた。その小島の上には木が沢山茂っている。ああ、軍艦島だ。松林の中からでは島の形、そのシェイプは良く判断できなかったが、海際まで出て眺めると、成程、「軍艦島」だ! どこから見ても格好の良い軍艦の形をしている。切っ先の鋭さは波を切って高速で進むフリゲート艦を思わせる。これは確かに軍艦島の名称に相応しい。

ただしこの島の本来の名前は見附島と言って、案内板を読むと、昔空海佐渡からこの半島にやってきた時、最初に見付けた島だから見附島と呼ばれるようになったとのこと。ここにも又弘法大師伝説が根付いている。随分以前には大国主命伝説、その後の役行者伝説、はたまた伝説ではなく足跡として今に残る慈覚大師円仁僧都の事跡。古来より諸国を経巡る偉人伝説は日本人の中に根付いている。

弘法大師空海佐渡へ渡ったとか、この半島にやってきた、と言うのは、この軍艦島の案内板を見て、初めて知った。裏日本にも大師の事跡があったとは・・。実に行動範囲の広い宗教家なのだ。今また別のグループ数十人が、ツアーガイドの小旗に従ってやってくる。島が正面に見える場所にガイドが立って、この島の謂れ、空海伝説などを話している。熱心に聞いている人もいれば、話はそっちのけに、あちこちの角度から島の写真を撮っている人もいる。能登人の自慢の観光地だ。浮沈軍艦。海上にすっくと立っていた。



日本全国、津々浦々を行脚した弘法大師空海。この能登半島にまで来ていたとは!
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全く今にも動き出しそうな巨艦だ。
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この遠い海の向こうに佐渡島があるのか・・。確か杏樹と厨子王もこの富山湾を越えて、この半島に流れ着いたと思ったが・・。
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自分が知らないだけで、この能登も長い歴史と伝説を秘めた半島なのだ。
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