本堂の裏の奥の院の後ろは深い森になっている。
この森の山頂が弥山になっている筈だが・・。
大師堂の前で写真を撮って、太龍寺を下山する。
参詣者によって、置物が供えられている。
西の高野山太龍寺。10数年前、山上の寺社群として高野山は世界遺産に登録されたが、それは弘法大師が熊野の高野山の山上の地が平坦状の地形が気に入り、時の嵯峨天皇から下賜され、その後、世界でも例をみない一大寺社群の聖地に発展したのだが、平坦であるという特質が生かされ、この山上の閉ざされた空間が真言宗のメッカになったものだった。
それに比べ平坦地の少ない比叡山ではそうした寺社群の発展は起こらず、ここ西の高野と言われる太龍寺も、山上には平坦地は少なく、僅かに山門から本堂、大師堂に至る数百メートルの峯道程で、高野山のような隆盛を見ることはなかった。交通不便な地で、長曾我部に焼き討ちにあったりして、一時は廃寺同様の荒廃した状態にもなったが、近年交通網の整備、ロープウェイの開通などを通して、今や、西の高野と言われるほどに、大寺への変貌を遂げている。
弘法大師が著した三教指帰読んでいないので、詳しいことは分からないが、大師が24歳の時にこの山に入り修行したとのことだが、それはそれ以前に最澄が開いた比叡山で修業した影響もあったかも知れない。当時、平安京が始まった当初の頃、最澄は奈良の大官大寺から別れ、比叡の山奥に修業の道場を開いたが、大師の目には市街地の塵芥を離れての山岳修行が魅力的に映ったかも知れない。
弘法大師が著した三教指帰読んでいないので、詳しいことは分からないが、大師が24歳の時にこの山に入り修行したとのことだが、それはそれ以前に最澄が開いた比叡山で修業した影響もあったかも知れない。当時、平安京が始まった当初の頃、最澄は奈良の大官大寺から別れ、比叡の山奥に修業の道場を開いたが、大師の目には市街地の塵芥を離れての山岳修行が魅力的に映ったかも知れない。
以前誰かの本、多分それは陳舜臣さんの曼陀羅の人だったかと思うが、空海が若いころ、この山中で虚空蔵求聞持法の習得に励んだが、それが出来ず、その後、室戸の三崎の洞窟で修業し、ある日、明けの明星が自身の口の中に飛び込んできたのを体感し、一気にこの難しい求聞持法を体得し、それ以降、あらゆる仏典は、ことごとく体得するようになった、との話をうろ覚えに記憶していた。この寺に来て初めて知ったが、この寺と室戸の最御崎寺が共に虚空蔵菩薩を本尊にしている、との共通点は、何か分かるような気がした。
本堂の裏の奥の院の深い霊気に触れ、この森の登り切った山頂が弥山で、弥山は西国各地の霊山の山頂に名付けられていて、自分もその内の幾つかの弥山に登ったこともあったが、今回は団体ツアーで自分勝手な行動も出来ず、森林を透かして弥山の場所を探っただけで終わったが、再び皆と一緒に参道を戻り、途中で鶴林寺の三重塔を谷越えに眺め、再びロープウェイに乗って、この寺、捨心山を下山する。7月は四国霊場巡りで土佐を打つ。最御崎寺には以前一度訪問したことはあるが、懐かしい。それまでには虚空蔵菩薩の真言を覚えておかなければ・・・。
本堂の裏の奥の院の深い霊気に触れ、この森の登り切った山頂が弥山で、弥山は西国各地の霊山の山頂に名付けられていて、自分もその内の幾つかの弥山に登ったこともあったが、今回は団体ツアーで自分勝手な行動も出来ず、森林を透かして弥山の場所を探っただけで終わったが、再び皆と一緒に参道を戻り、途中で鶴林寺の三重塔を谷越えに眺め、再びロープウェイに乗って、この寺、捨心山を下山する。7月は四国霊場巡りで土佐を打つ。最御崎寺には以前一度訪問したことはあるが、懐かしい。それまでには虚空蔵菩薩の真言を覚えておかなければ・・・。
(時の流れは一律だ。泣いても笑っても、寝ても覚めても1日24時間、この時の阿波巡礼から早くも1か月が過ぎてしまった。明日、7月17日にはいよいよ次の巡礼、土佐打ちが始まる。明日には早くも最御崎寺へ参詣する。虚空蔵菩薩を大いに唱和しよう。)
参道の途中から、谷越えに鶴林寺を見る。
鶴林寺三重塔が僅かに見える。
石段下から改めて山門に辞去する。
ロープウェイ山頂駅。標高476mの表示がある。