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日々の連続

四国霊場・高知篇(21)第三十四番種間寺に参拝後青龍寺へ。

種間寺ではとうとう小雨になってきた。

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ご本尊は重文の薬師如来坐像

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有り難くころころせんだりの真言を唱える。

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この寺の名前に相応しく、五穀豊穣を願う小糠雨だ。

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高知市春野町にある四国霊場第三十四番種間寺空海が米、麦その他五穀の種を中国から持ち帰り、この寺の境内に蒔いたと伝えられ、それかこれかここ春野町は端境期の春物野菜で名を馳せているが、その五穀を寿ぐかのような小糠雨が降ってきて、これから傘を差しての唱和が始まる。この寺の御本尊は重要文化財の指定を受けている薬師如来坐像。地元の人には「安産の薬師さん」と呼ばれ、慕われている。

 

この寺の歴史は古く、空海がやってくる200年程も前、用明天皇の頃、百済から多くの仏師、技工がやってきて、大阪四天王寺を造営した。寺が完成後、彼等が本国への帰国に際し、土佐湾沖で暴風雨にあって船が遭難し、この寺の近くに緊急避難したとのことである。その後彼等はこの寺の近くの本尾山山頂に薬師如来坐像を彫像し、海上の安全を願ったことがこの寺の始まりと言われている。

 

昨日高知空港へやってきて、2番目に参詣した神峰寺で、神仏習合の頃の神峰神社のことを知ったが、その神社は神功皇后の時代、朝鮮半島への出兵戦勝祈願の為に建立されたのだが、こうして見ると古代の半島との海上交通は、瀬戸内海だけでなく、こうした土佐沖の外洋航海も頻繁に行われていたことが、これ等の事跡を知ることによって、新たな発見となった。

 

江戸末期、プーチャーチン提督の乗るデイアナ号が伊豆沖で難破したが、当時の江戸幕府は、伊豆戸田港で新たに洋船を建造し、提督をロシアに送り返した故事があるが、当時の聖徳太子の時代にも同じように船を造り、大宰府経由で百済に送り返したんだろうか・・。1400年、1200年も前の昔の歴史を秘めたこの寺のありがたき薬師如来にお参りし、次は土佐市にある青龍寺に向かった。

 

春野町と土佐市の間には日本一の清流、仁淀ブルーで有名な仁淀川がながれているが、バスは一瞬で通り過ぎ、川面を眺める時間もなかった。この町で驚いたのは、川のような内海、浦の内という鰻の寝床以上に細長い湾で、最初見たときは川かと思った。大きな川でこれが仁淀川下流域に当たるのかと思ったが、それは間違いで、奥行きが10キロもあるような川のような湾だった。青龍寺はこの湾の出口付近に架けられた橋を渡った半島の先にある。戦後に造られた橋を渡ったこの半島、横浪半島の先端部にあり、橋ができるまでのお遍路は渡し船に乗って、青龍寺まで行ったのだ。お寺は明徳義塾の横の道を通った突き当りの小山の麓にあった。

 

次は土佐湾の奥、青龍寺に向かう。

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この寺の直ぐ近くには明徳義塾がある。

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この長い石段を登った先に本堂がある。横綱朝青龍明徳義塾学生の頃、この参道を上り下りしたとのことである。

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小雨の中、漸く本堂に着いた。

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