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日々の連続

四国霊場・高知篇(39)第二十九番国分寺へ。

第二十九番国分寺。山門は楼門の仁王門になっている。

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仁王様は、金剛力士像だ。

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鎌倉時代の運慶派を思わせる力強い力士像だ。

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山門を入ると、参道が真っ直ぐ伸びている。

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善楽寺大師堂にお参りし、今日最後の札所、国分寺に向かう。今日最後というか、今回の第2回お遍路道土佐編の最後の霊場となる。今日の午後は第三十一番竹林寺から始まって第三十番善楽寺、それにこの最後の第二十九番国分寺と、本来の巡礼道とは反対の逆打ちの順番で参拝することになった。本来のお遍路さんは、室戸岬先端にある最御崎寺から半島の長い海岸線を辿ってこの国分寺にやってきて、最後に竹林寺にお参りして高知城下に入り、漸く城下の宿でわらじを脱いでいたのだ。

 

全国にある国分寺。前回徳島でも国分寺に参詣した。今から1300年前の天平の時代、聖武天皇は全国60余国に国分寺国分尼寺を建立し、その総本山として奈良東大寺を建立した。東大寺を含め、当時の国分寺は現在どこにも残存していないが、礎石は各地に残されている。現在の国分寺はその礎石の上に再建されたり、その当時の国分寺跡近くに同名の寺が建立された。自分が住んでいる多摩地方にも武蔵国分寺があって、全国でも最大規模を誇っていたが、鎌倉末期の騒乱により焼失されてしまった。世にいう分倍河原の戦いである。その後、ここから直ぐの場所に現在の国分寺が建立され、災厄を免れた薬師如来をご本尊とする薬師堂が小高い台地の上に立てられた。自分も妻病状の頃には何回かお参りに行き、その甲斐あって命を長らえることができた。

 

土佐国分寺がこの場所に建立されたのは聖武天皇天平年間で行基によって開基されたが、当然この場所は土佐国国府であった。後年土佐日記の作者紀貫之が収税官(正式官名は受領)としてやってきたが、5年間の住まいはこの国分寺の近くだったようだ。しかしその後、この寺も国衙も鎌倉室町以降の戦乱により荒廃し、漸く長曾我部の代になって再興されたが、国府は既に高知に移っていた。山門は江戸時代初期の建築で仁王門になっていて、左右の楼門には金剛力士の仁王像が安置されている。その山門を潜って寺内に入ると、長い参道が真っ直ぐ正面の、ここでは金堂と呼ばれているが、本堂に伸びていた。茅葺の重厚な重要文化財である。

 

重要文化財の本堂(金堂)。

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大師堂。これも又江戸時代になって山内藩主により建立された。

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大師堂でのお参り。

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雨の中、大師堂へのお参りをする。

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