今日最後の霊場、円明寺からホテルに戻り、これから松山城に向かう。
路傍に正岡子規の句碑が立っていた。「杖によりて町を出づれハイネの花」。散策集の最初の句。
ケーブル乗り場の直ぐ横には東雲神社の境内があった。
歩いて登ろうかとも思ったが、足が相当に疲れていて、リフトに乗って登城する。
お城が近づいてくる。天守か櫓か・・
本日最後の巡礼寺円明寺からホテルに戻ったのは3時。松山城はホテルの直ぐ裏にあり、これから行っても時間は充分ある。ホテルで一服し、歩いて城へ向かう。ホテルからリフト乗り場までは歩いて10分程度だ。城の裏側、市内の住宅地を横切って向かう。ふと道端の石碑に気が付く。子規の句碑だ。正岡子規は松山出身、漱石の同窓で親友だったのだが、結核を患い、35歳の若さで亡くなった。明治の頃の医学事情では結核は不治の病だった。結核と分かり、郷里の松山に戻ってきて、漱石と一緒の愚陀仏庵で下宿生活をしていたが、病状が徐々に改善し、外を出歩くことも出来るまでに回復した。この道端の句はその時のもので、明治28年9月、彼の「散策集」の最初に出ている句。「杖をよりて町を出れハ稲の花」。ステッキではなく杖、稲の花は殆ど目立たない。
松山は彼の出身地だけあって俳句は盛んだ。俳句の町としても知られている。以前来た時は、街の所々に俳句の投稿ポストがあって、自分もいたずら気分で何句か投稿したこともあったが、今回の巡礼ではそうしたポストには気が付かなかった。今テレビ俳句で大人気の夏井なつきさんも愛媛出身で、彼女の生地は最初の日に訪問した愛南町。愛南町のどこかまでは知らないが、合併前の西海町の沖合には紫電改が墜落していた。「西海に沈む夕陽紫電改」。そんなことを思いながら、お城を縁取りするように、数百m歩くと、城山に向かって東雲神社の大きな参道が見え、その先にリフト、ケーブルの乗り場があった。
この城に来るのはほぼ30年ぶりだ。30年ほど前、最初にこの町にやって来た時、この城と道後温泉、愚陀仏庵に松山駅前のぼっちゃん電車ロータリー。その時は大手門の所から歩いて登城した。その横に短い距離のケーブルカーが出ていたが、今はこちらに場所替えしたようだ。コロナ禍の中、受付でマスクを求められた。ホテルに忘れてきたと話したら、係の人が1枚貸与してくれた。客は自分以外には誰もいないが、そういうルール、リフト、ゴンドラに乗るにはマスク着用が義務付けられているようだ。リフトに乗って30年ぶりにお城に上がる。お城が段々近づいてきて、天守閣の一部が見えて来た。ほんの5-6分で到着。そこから又5-6分歩いて本丸広場へ登るのだ。全体がかなり様変わりしている。Renewalされているのだ。30年の間にはバブルの隆盛とバブルの崩壊、その後の長い低迷を経て、今があるのだ。さあ、本丸はどのように変化しているか・・。
ここから見る石垣も相当なものだ。
150mの小山の上に建つ堅牢な城だ。
リフトの終点は本丸の直ぐ下。これから5-6分歩いて登る。
櫓の一部が見えて来た。
この門の先が本丸広場だ。
ああ、天守閣が見えて来た。
最後の門を潜る。