国道沿いの「頑張っ亭」でお昼を食べて、今日最後の霊場国分寺にやってきた。
石段を上ると正面に本堂があった。
国分寺様式があるかどうか・・、今まで見て来た各地の国分寺と似ている。
国分寺? ああ、そうか、この地が奈良時代の国府だったのか・・。
少しお昼が遅くなったが、まだ1時。今治6ケ寺の霊場の最後の札所国分寺に向かう。手際が良すぎたのか、貧乏性だったのか、予定は随分早めに進行し、午前中3ケ寺巡礼する予定が、早くも5ケ寺巡礼し、今日は後1つを残すのみとなった。場所は今治市街の東側郊外で、西条に向かう方面にある。仙遊寺を下りてきて、昼食を食べたドライブイン、今思い出したが「頑張っ亭」からはそれ程遠くはない。四国霊場はお遍路道の道順に霊場番号が付けられていて、歩き遍路の巡礼者はその順番通りに巡礼する。従って、今治ではここが最後の霊場となって、次は西条に向かうのだ。
今治東郊の住宅地を抜け、中程度の川の堤防を少し走り、その堤防道路を下りた先の住宅地の中に国分寺はあった。聖武天皇の勅令により全国各地に国分寺、国分尼寺が建立され、自分の住む武蔵国、小金井市の隣町は国分寺市で、この市名は奈良時代ここに国分寺が建立されていたからに他ならず、今はその礎石跡が史跡として保存されている。当時の武蔵国府は府中にあり、ここも又府中という市名で嘗ての国衙所在地を示している。今現在今治市のどの辺りに国衙跡があったのかは自分は知らないが、当時の伊予国都はこの国分寺の周辺にあり、則ち、今の今治が伊予の中心であり、当時の松山は熟田津(にぎたづ)とか道後周辺にパラパラと民家があった程度だった。松山が今のように発展したのは、先にも見た様に江戸初期に加藤嘉明が勝山に現在の松山城を築城し、その後町が形成され、現在の発展を見たのだった。
国分寺様式という建築物があるかどうかは素人の自分には分からないが、各地の国分寺を見て来た自分には、国分寺には皆どこか共通点、それは奈良東大寺大仏殿の建物と類似している点である。奈良東大寺は全国国分寺の総本山。各地国分寺はその末寺に当たった。ただその後各地の国分寺はそれぞれの宗派に分類されることになったが、四国に関しては4ケ寺ある国分寺は全て真言宗になっている。宗派は確かに真言宗だが、お寺の構造は矢張りどう見ても国分寺様式だ。駐車場の前の長い石段を登ると、正面に本堂がドンと構えている。どこか見た覚えのあるお寺だ。矢張りこれが国分寺だ。
奈良時代の国分寺とは場所も建物も変わっているが、1200年経った今もこの地に国分寺があるのが、懐かしい。
奥に鐘楼が見える。
薬師の坪。この寺のご本尊は薬師如来。
神仏習合の名残で、隣には神社がある。
大師堂と奥の本堂。