八重山戦争慰霊碑はバンナ公園を入って直ぐの駐車場の上に綺麗に整備されていた。
バンナ公園前のバス停。バスは既に終了。石垣市内まで歩いて帰らなければならなかった。
沖縄本島でも漢字に置き換えられない方言とか古語が散見されたが、ここ八重山地方は更にそれが多い。2月に西表に行ったが、そこにある山とか滝の地名には殆ど漢字には表せられないカタカナ名が多かった。マリュドー、カンピレー、ピナイサーラ等の滝の名前はどう見ても日本の古語でもなさそうだし、どちらかと言うと南方系の外来語を思わせる。南からサバニでやって来た人々がこの島に移り住み、自然のランドマークに彼等の言葉で名付けたものが今に残っているのかも知れない。
この「バンナ」という地名も漢字では表記されていない。地元の人に意味を聞いても正確には答えられないだろう。既に失われた言葉で、「バンナ岳」という地名でのみ残されている。沖縄県で一番高い山はこの石垣にあり、12年前には自分も裸で登ったが、その山の名前は「於茂登岳」。この「於茂登(おもと)」は明らかに表音の当て字で、多分、本来は「万年青(おもと)」から来ているのではないかと思う。「万年青」は中国人の好む緑濃い草花で、この山に或いは万年青が沢山自生していたのかも知れない。或いは琉球王朝が中国風の名前を好んだのか・・。
囲碁の女性棋士で万波さんという中堅棋士がいるが、この「バンナ」、何故か「万波」を想起した。山頂まで登った訳ではないが、その中腹からでも、この山が標高はそれ程高い訳ではないが、広い裾野を持っていて、密林のような緑の樹林帯が波のように広がっていた。緑の「万波」。それは四国霊場第45番札所岩屋寺でも感じたことだが、88ケ寺中4番目に高い山中にあるこの寺の山号は「海岸山」。そこは四万十川の上流久万高原の山中にある寺で、海は全く見えないが、寺の境内から眺める山野は本当に波打つ緑の海原で、この寺の山号「海岸山」は正にこの情景を表しているのではないかと思った。それと同じ思いがこの「バンナ岳」、万波の緑のつづら折りを見て感じたのだ。
この沖縄で八重山戦争なる戦いがあったとはここにある石碑を見るまでは知らなかった。太平洋戦争時、沖縄本島は米軍の上陸によって地獄の惨禍に見舞われたが、その時の八重山地方は米軍はパスして、戦禍には見舞われなかったと理解していたが、この石碑には「八重山戦争慰霊碑」とあり、少し驚いた。この島でも戦争と呼ばれるような戦いがあったのかと。で、その碑文をよく見ると、これは太平洋戦争中、マラリアで犠牲になった人々を悼む慰霊碑だったのだ。自分は知らなかった。
一昨日バスで島の最北端伊原間まで行ったが、島の北半分は山がちだが、裾野も広く、原野が広がっているだけで、人家は疎らで、人々はどうしてこの島の北部未開地を開拓しなかったのか、不思議に思った。特に戦前南洋庁のあったサイパンに日本人の入植者を送り、米軍攻撃の際には1万人からの民間人が犠牲に遭ったが、その大半は沖縄出身者と言われる。政府は直ぐ間近の石垣にサイパンの数倍もあるような広大な土地があるのに、何故ここではなくサイパンを奨励していたのかと、疑問に思ったが、この犠牲者の碑文を読むことにより、その疑問は氷塊した。島の北部、及び西表島は、マラリアの猖獗地で、人の住める土地ではなかった。戦時中、この地に強制移住させられた島民、3600人が犠牲になったのだ。それをここでは八重山戦争と呼んでいた。成程、艦砲射撃で亡くなるのも、政府の命令によりマラリアで亡くなるのも、戦争犠牲者であることには変わりない。八重山戦争記念碑の前で一休みし、県道へ出てバス停を見たら、何と! バスはもう出ていない!うーんやむを得ない。バスがないなら、町まで歩いて帰るか・・。
市街地が前方に見える。ざっと見たところ、2‐3キロか・・。
バンナ岳。高さは240m程だが、ここから見ると随分高く見える。
ああ、近くには石垣鍾乳洞へ行く入り口もある。
町までは大分離れているが、1時間も歩けば着くだろう。