ちゃおチャオブログ

日々の連続

石垣再訪(35)シード―線長間橋交差点。

自分の記憶ではアダンの花と思われるが、綺麗に咲いている。

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ああ、山羊が放し飼いにされている。良く肥えている。

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ここまで来るとバンナ岳も遥か遠くに後退した。

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珍しい南国の花、蘇鉄に似ているが、蘇鉄よりも色鮮やかで、多分アダンの花実と思うのだが、それに見とれ、写真を撮っている間に前方を歩いていた母子は遥か先に進み、その内に見えなくなった。今全国各地で家族間の諍い、一家心中、男女間の殺し合い、等々殺伐な事件が多発しているが、この石垣に限ってはそれは無いだろう。前を歩いていた仲睦ましい母子の姿を見ていて、そう思った。南の島には内地にあるような世知や世故はないのだと。そうそう、いつ会っても、歳を感じさせない愉快なトニーさんと話していても、それは分かる。

アダンの花は道路から少し奥まった所にあるお寺の入り口付近に咲いていた。お寺の名前を見ると日蓮正宗唱行寺と出ている。ほー、こんな場所に内地のお寺が。それもしかも日蓮正宗とは! 今現在日蓮正宗創価学会の関係がどうなっているのかは知らないが、以前はここが創価学会の石垣に於ける布教活動の拠点になっていたに違いない。戦国末期、カトリックの宣教師が千里の荒海を乗り越えて極東の地にやってきた。布教途上で命を落とした宣教師も沢山いただろう。江戸の初めには迫害を受けた宣教師も多々いた。今は平和な時代とは言え、本土から遠く離れた南の島にやってきて、この島で熱心布教活動をしていた人もいたかも知れない。飛行機での移動が出来なかった戦前の昔、最果ての南の島とは言わないまでも、日本の辺境の地ではあったであろうこの島で、強い意志と覚悟を決めての布教活動。歴史には現れない日常の人々の生活の一端が平明な縦書きのこの寺の山号に見て取れた。

もう前の親子を追いかけるのは諦め、ゆっくり歩いて行くと、今度は放し飼いのヤギが見えた。山羊だから放牧場とは言わない。豚だったら養豚場という。ニュージーランドのような広大な土地での羊の放し飼い、Rangeとも言わないだろう。小さく一部を囲ってあるだけだ。ヤギの囲繞地か。そのヤギは自分の命運を知ってか知らずか、のんびりと草を啄ばんでいる。今先刻の山羊専門店「一休」がコロナ禍で休店となっているが、店の休業が長引けば長引くほど、自身の命が先伸びされる。勿論ヤギはそんなことは理解できないだろう。輪廻転生。1000年後に自分はいつこのような山羊に生まれ変わるか知れないし、この山羊自体が1000年前の聖人だったかも知れない。 先日読んだ梅原猛の本の中で、彼はしきりに「草木国土悉皆成仏」を各所で述べていた。草も木も川も石も、この地球上にあるありとしあらゆるものが仏性を持っている。ましてやここにいるヤギなど、高等動物だ。自分が殺され、きざまれ、食卓に上り、人に食べられる。そうした宿命が分かった上で、黙々と草を食んでいる。愛しい山羊だ。

そんな放し飼いの山羊を見ながら歩いて行くと、漸くシード―線と交わる長間橋に出た。このシード―線の内側が市街地で、住宅は密集し、外側はほとんど何もない雑種地で、唯一、県立八重山病院がある。12年前、於茂登岳に登った帰り、殆ど原野に近い一本道をこの3階建ての真っ白な病院を目指して自転車を走らせた。12年前と同じ場所に同じように立っている。だが、今はこの病院の新館は、シード―線の先、これは空港線とも呼ばれ、空港まで真っすぐ繋がっているのだが、その新館も空港に近い場所に移転した。この旧館には自分の知り合いの法医の先生が勤務していた。当時琉球大学助教授で、後年トリカブト毒の解析で、かなり有名になり、東京の大学の主任教授に収まった。いろいろと思い出の深い病院だ。さて、Inaさんとの待ち合わせ時間6時も近づいてきた。余りゆっくりもしていられない。この住宅地の路地のような細い道路を真っすぐ港に向かった。石垣の生活の匂いも感じられた。

 

ああ、漸くシード―線、長間橋に着いた。県立八重山病院は12年前と同じ場所に、同じように建っている。

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長間橋交差点。シード―線、水道線、空港線とも呼ばれ、この道路は石垣新空港まで繋がっている。

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石垣市街地に入り、宮良殿内(どんち)の近くには立派なお墓もあった。

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