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日々の連続

高幡不動尊参拝(3)日野は新選組土方歳三の故郷。

  • それ程高くはない裏山ではあるが、沢、谷のような自然の造形もある。

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裏山の山頂の高さは浅間よりは少し高い位か・・。100m程の高さだ。眼下に多摩川と日野の街並みが見える。

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八十八ケ所石仏はずっと奥の方まで続いているが、午後からの雨の予報もあり、途中で端折って下山した。

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関ヶ原以前の豊臣期、家康は秀吉に命じられて江戸に移封されたが、その頃の江戸、今の東京は殆どまだ未開の地だった。秀吉が全国統一する以前のこの地は、小田原に本拠を置く北条家の領地であったが、それはそれ以前の関東管領、上杉氏が支配する地域であって、川越とか寄居等の昔からの集落を除いては、広大な未開発地だった。当時の江戸、今の東京の郊外に集落が発展してきたのは、江戸幕府によるこの地の開発に寄る処が大だった。今の東京は当時の江戸幕府の直轄地がそのまま首都圏東京都になったもので、ここには藩領はない。

この多摩地区は伊豆の韮山に本拠を置く江川太郎左衛門が代官として支配する地であり、今でも高尾山に登ると、裏高尾に太郎左衛門の植林した広大な杉林が現存している。江川杉と呼ばれるもので、まだ自然遺産、文化遺産にはなっていないが、高山の飛騨美林、大分の日田美林と共に、植林の文化遺産に登録されてもおかしくない。この高幡不動尊も日野宿、幕府直轄領にあって、幕末、生活に余裕の出てきたこの周辺の農家、商家の子弟がかなり自由な行動をしていた。そうした中で剣術に優れた近藤勇をリーダーとする新選組が形成され、その代貸しの一人として土方歳三がいた。

土方はこの寺のすぐ前の石田村の出身で、生家跡は今でも保存されていて、その血筋を引く孫の孫辺りのお嬢さんが、保存館の館長をしている。歳三に似て美人の娘さんだ。歳三自身の墓地は生家近くの石田寺にあって、今でも参詣者の焼香が絶えないが、彼は高幡不動尊金剛寺の檀家ではないがこの名刹には幼少の頃から参詣に来ていたのだろう。五重塔の前には立派な銅像も立っていて、全国歳三フアン、特に若い女性からの訪問が絶えない。今はコロナ禍で参詣者も少ないが、このコロナが収まれば、又沢山の全国フアンを集めることだろう。

五重塔裏山の八十八カ所石仏巡りを終え、最後の八十八番にお参りし、その奥にある虚空蔵菩薩の立派な御堂にお参りし、順繰りに境内を巡る。虚空蔵菩薩空海室戸岬先端の岩室、「御厨人窟(みくろど)」で虚空蔵菩薩真言「ノーボーアキャシャキャラバヤ オンアリキャ マリボリソワカ」を100万遍唱え、とある朝明けの明星が口の中に飛び込み、あらゆる記憶能力を体得したと言われる。阿字で「タラーク」、干支は丑寅だ。その虚空蔵菩薩堂で覚束ない真言を唱え、次のこの寺の本堂、大日堂へ向かった。

 

八十八番目石仏の直ぐ後ろには虚空蔵菩薩堂がある。菩薩像の上に阿字が彫ってあり「タラーク」と書かれている。

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この寺の本堂、大日堂にお参りする。

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阿字は「バン」であるが、この文字は読めない。

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土方歳三像は前回の参詣時に写真を撮り、今回は撮影しなかった。寺のHPからの借用だ。

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