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日々の連続

紀の国訪問記(47)熊野那智大社参拝。その後八咫烏神社へ。

下の鳥居から最後の十数段の石段を登った上にある大鳥居。

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境内の奥には社殿がある。

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熊野那智大社

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本殿の横には摂社があり、その一つに八咫烏神社がある。

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今回の旅行目的は2つあり、その一つは高野山奥の院での四国巡礼結願お礼と、その後は熊野三山を巡ることだった。蟻の熊野詣。高野山が宗教聖地として発展する以前の京都の御所、公家、等々が競って熊野詣でを行い、多くの貴人公人が熊野参詣道を歩いた様は蟻の行列に譬えられた。御所で一番多く参詣したのは記録によれば後白河上皇の34回、後鳥羽上皇の28回等が数えられている。京都からの往復は凡そ1か月、総勢100人以上の従者を従えての大行列は、江戸時代の参勤交代に匹敵するものであり、日本人は平安の時代の昔から旅が好きだった。平安初期の弘法大師が生存中の頃から、既に四国八十八夜ケ所巡礼は始まっていて、スペインのサンチャゴ聖地巡礼が始まる数百年も前のことだった。日本人のDNAの中には、或いはこうした移動民族の血が流れているのかも知れない。

 

これ等日本人の宗教行事に名を借りた物見遊山が始まる遥かそれ以前には、中国では早くも泰山への巡行が始まっていた。紀元前秦始皇帝がこの山頂で封禅の儀を行ったことは有名だが、その始皇帝以前の前漢時代、山頂には漢武帝の大きな石碑が建てられていて、自分も麓から5000段を越える石段を登ってこの山頂に達し、その大きな石碑を見た時は、実に感動した。その石碑には長文の碑文が書かれていて、自分には読むことはできなかったが、今から2300年前の歴史が眼前にあり、漢字が今も尚廃れずに現代に残されていることに、これも又感激した。中国歴代の皇帝があの長大な石段を登って山頂に向かったことを思い、日本の中世期、平安時代の多くの上皇が何百人もの従者を従えて、今この熊野三山那智大社の467段の石段を登ったのかと思うと、これも又感慨一入だった。華やかな出で立ちと、今は無人の石段も、多くの上臈、女御達のざわめきが彷彿された。

 

漸く467段の石段を上り詰め、目の前の赤い鳥居を見た時には、漸く登れた、との感だった。鳥居からは更に数十段の最後の石段を登れば境内だ。コロナ下で参詣者の数は少ないが、それでもチラホラお参りしている人の姿も見える。どんな時でも皇居へ参拝者がゼロにならないように、この神社へも参道が通行禁止にならない限り、毎日何人かの参拝者はやってくるのだろう。石段を登った上に最後の大鳥居があり、広い境内の奥に赤い社殿が鎮座している。手口を漱ぎ、先ずは社殿に参拝する。

 

大きくかしわ手を打って境内を見渡すと、本殿の横に摂社があって、その一つが「八咫烏」を祀る神社だ。「ヤタガラス」とは3本足のカラスで、今はサッカーJリーグのシンボルマークになっているが、その昔、神武東征の折り、九州日向から東上した神武天皇は、紀伊半島には到達したものの、地元の酋簇に行く手を阻まれ、中々明日香の地に行きつくことが出来ず、半島を南下し、ここ熊野の地にやって来た時、漸く地元の熊野族が協力を申し出、晴れて明日香に攻め入ることが出来たのだが、その熊野族が神鳥として崇めていたのがこの「八咫烏」だった。カラスが尻尾を地面に着けて、二本足でぴょんぴょん跳ねる様が三本足に見えたとの説もあるが、実際には何らかの変異で、3本足烏も居たのだろう。それは神としてここに祀られているのが、何よりの証拠だった。

 

サッカーJリーグのシンボルマーク、ヤタ烏。

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本殿の前には産土神を祀る大きな楠がある。

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この楠の根元部分が空洞になっていて、胎内くぐりも出来るが、足元が不安定の為、自分は入らなかった。

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偶々通りかかった巫女さんお願いし、社殿まで写真を撮ってもらった。

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