ちゃおチャオブログ

日々の連続

紀の国訪問記(74)白浜ビーチを通り抜け三段壁へ。

白浜ビーチは想像していたよりも広い浜辺だ。

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若い人は海に憧れる。このコロナ禍でもかなりの海水浴客がやってきている。

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皆それぞれひと夏の海を楽しんでいる。

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砂浜温泉もあれば、海中展望もあって、白浜は遊びには事欠かない。

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白浜漁港を通過し、白浜ビーチに入り込んだ空港バスは、直ぐにも通り過ぎると思っていたビーチが意外と長い。タイのパタヤとかプーケットのパトンビーチ程はないとしても、想像していたよりは幅広で、矢張り関西随一の浜辺となるだろう。本当に時間があったらバスを降りて、浜辺に立ってみたい気もあったが、帰りのバスの心配もあるし、車窓から眺めるだけにしておいた。ざっと見た処、総延長は2キロはあるだろう。

 

ここの砂浜は粒子が細かくさらさらで、多くの珪素、珪酸が含まれていて、戦前にはガラスの素材として採取されていたとのこと。ここの温泉は歴史も古く、万葉集にもその名が出ていて、道後温泉有馬温泉と並んで日本三古湯の一つに数えられている。歴史的には牟婁(むろ)の湯として知られ、斉明天皇持統天皇などが訪れていて、浜辺に湧き出る温泉につかって和歌の海を眺めていたに違いない。その海の先に四国の饒田津、九州大宰府、更にその先の加羅漢国を思っていたかも知れない。

 

永らく親しまれてきた「牟婁の湯」から南紀白浜白浜町と呼ばれるようになったのは、歴史的に見ればつい最近のことで、僅か100年程前、大正時代になってからだ。この温泉付きの白砂青松の地は、関西人に取っての最良に避暑地、行楽地になり、鉄道、道路、航路などが整備され、続々旅館ホテル等の温泉施設が作られた。戦後の一時期、関東の熱海、九州別府と並ぶ、日本三大遊興地になっていた。戦後パンダ動物園が作られ、温泉、ビーチ以外にもこのパンダ目当てにやってくる人も増えてきた。隣町の田辺が市域をどんどん広げ、今や山の向こう側の熊野本宮まで田辺市の一部にしているが、直ぐ隣のこの町は、頑なに独自の道を歩んでいる。歴史的な誇りと、観光収入がなせる技だろう。バスは漸く海岸通りを通り過ぎ、三段壁の入り口に差し掛かって来た。

 

漸く長い浜辺通りを通り過ぎた。

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町の郊外、三段壁にやってきた。

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白浜空港一つ手前の三段壁で下車。

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ああ、これは見ごたえのある断崖だ。

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