ちゃおチャオブログ

日々の連続

紀の国訪問記(78)田辺・闘鶏神社に参拝。

闘鶏神社本殿は現在修復工事中だった。

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歴史の古い神社だけに境内の樹木も鬱蒼としている。

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摂社、大黒さんとえびすさん。元々は親子の神様だ。

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重文の社殿ではあるが、シートに隠れて見えない。

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闘鶏神社とは随分変わった名前の神社だ。普通神社と言うと、どこか有名本宮の分霊を奉る末社とか、そうした場合押しなべて本宮の名前を冠し、全国あちこちにある稲荷神社とか、八幡神社春日神社など、コンビニのチェーン店の様相を示しているのだが、この闘鶏神社はここ田辺にしか存在していない。この神社は世界遺産にも登録されている程の由緒ある神社だが、どこかに霊を勧請し、末社が建てられたことはなかった。

 

そもそもこの名前の「闘鶏」は実際にこの神社の境内で行われた闘鶏に由来するものである。源平合戦の頃、この宮の宮司は源氏方、平氏方、どちらに味方するか判断が付きかねていた。そこでこの境内で赤い鶏と白い鶏を戦わせ、その結果を見て判断することにした。戦いの結果、白い鶏が勝ち、ここを本拠地とする熊野勢は白の源氏に味方することにした。その結果、熊野水軍を主力とする源氏方は連勝に継ぐ連勝で平家を追い詰め、遂には壇ノ浦にて海の藻屑に葬り去った。その時の一人に武蔵坊弁慶がいたが、後年義経が兄頼朝から追われる身になった後々まで行動を共にし、彼も又奥州平泉にて兵火に斃れた。

 

自分はここへ来るまで、弁慶は熊野本宮を生誕の地とし、そこでの僧兵としての活躍を想定していたが、実はそうではなく、弁慶はこの地、田辺で生まれ、成長したのだ。この社のどこかに弁慶誕生の産湯釜がある筈だが、境内には尋ねる人もなく、写真も撮らずに帰ることになった。この宮は以前は田辺宮とも呼ばれ、熊野本宮、那智大社等と強い結びつきがあり、近年の世界遺産登録に際しても一括して登録されたものだが、その故事以来ここは「闘鶏神社」と呼ばれるようになった。

 

闘鶏の鶏はシャモと呼ばれ,漢字では軍鶏と書く。戦い専門の鶏で、古来から世界各地で行われていた。ここ田辺宮での闘鶏が行われた以前から国内各地でも行われていたが、ここでの闘鶏は日本の歴史を変え得る重要な出来事だっただけに、印象的な出来事で、この神社も以降、このように呼ばれて来たのだ。シャモとはシャムの名前が訛ったもので、江戸時代当時のタイ国、シャムから軍鶏を輸入したことにより、シャム→シャモと呼ばれるようになった。随分以前タイ北部の田舎をトラックバスで旅行していた時、3-4人の地元民が大事そうに鳥籠を抱えて乗って来たが、中にいたのは軍鶏だった。これからどこか闘鶏会場へ行く途中のことだった。闘鶏神社に参拝し、過去のそんなことも思い出した。

 

参拝口は開いていた。

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ここでも又イザナミノ命が祀られている。

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熊野本宮と同じ三連棟、四連棟の社殿であるが、残念ながら見ることはできない。

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ここも又、1600年の歴史を有している。

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