ちゃおチャオブログ

日々の連続

函館の三日間(37)函館の外人墓地。

古刹、高龍寺から4-5分先に外人墓地がある。最初に目に付いたのは中国人墓地だ。

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高台の上にあって、眼下の海峡が一望だ。

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その向かいにはロシア人墓地がある。地理的に近いロシアからは多くのロシア人が移住してきたのか・・。

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米国海軍少将、コモドール・ペリーが江戸湾浦賀沖に黒船でやって来たのは明治ご一新の15年ほど前。嘉永年間のことで、その際ペリーは米国大統領の親書を手渡し、江戸幕府に開国を迫ったのだ。翌年ペリー提督は再び来航し、幕府は中国、オランダ以外に最初の外国、米国との和親条約を結んだ。ペリーはこの前後、琉球やここ函館にもやってきて、各地の港の観察、今でいえばスパイ活動を行った。

太平の天国を破られた日本は、この時、米国の強い要請で、下田と函館(箱館)の2港を開港することとなった。それまでの函館は松前藩下の北前船の商業港で賑わってはいたが、この頃から、更に外国人が居留するようになり、賑わいも増した。函館の開港はその後の日米修好通商条約で開港された神戸、横浜、新潟よりも10年も早かったのだ。函館山の今いる場所とは反対側にはペリー7来航の記念碑も立っている。

魚見坂を登った肩の部分に曹洞宗名刹高龍寺があり、この寺自体は江戸時代まで松前藩下の函館郊外に開創された北海道で一番古いお寺ではあるが、火災によって焼失し、明治になって今のこの場所に移転した。坂の上にあって見晴らしは良く、右下には函館市内が見え、左手は海峡も見える。観光マップを見るとこの寺から5-6分の先に外人墓地がある。この辺りは坂の上の平坦部分になっていて、平らな道路が続き歩くには困難はない。

暫く平坦道を歩くと右手に洋風なレンガ門があって、名前を見ると「函館中華山荘」と書いてある。ああ、ここが中国人墓地、中華苑だ。長崎には古くから中国人が住み着き、神戸横浜には中国人街もできているが、ここ函館にもやってきたのだ。中国人は商売熱心で、旺盛だ。その向かいにロシア人墓地がある。地理的にロシアに近く、かなりの数のロシア人もやってきたのだろう。ここにはロシア正教会の教会まである。更にその向かいには外国人墓地がある。プロテスタントと出ている。英米人の埋葬者なのだろう。外人墓地と言えば、横浜が有名で、港の見える丘の上にあって、眼下の横浜港が一望に見渡せるが、ここ函館の外人墓地も同様に丘の上にあって、眼下の港、海峡が一望に見渡せた。

 

更にその反対側、即ち中華墓地の並びには、プロテスタントの墓地がある。

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この町にはイギリス領事館もあった。函館戦争は裏で英仏がしのぎを削っていた。

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開港150年、幾多の人が様々な歴史を刻んだのだろう。

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今日の海峡は波静かだ。

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