ちゃおチャオブログ

日々の連続

壱岐・対馬2島巡り(23)対馬藩、金石城訪問。

フェリーターミナルからは歩いて厳原市内を通り抜け、金石城に向かった。市内中心部にはマツモトキヨシの大きな免税店があったが、これは韓国客目当てだ。

 

市の中心部に近い場所に石垣があった。これは最近になって整備されたもので、石垣の奥には観光物産館が建っている。現在コロナで閉館中のようだ。

 

これも又再築されたものだが、お城の城門。二層の櫓門になっている。

 

 

壱岐対馬も歴史の古い島である。3世紀の魏志倭人伝に既にその名前が文献に表れ、その同じ地名は現在に引き継がれている。同じような名前の末盧国(松浦)、伊都国(糸島)、那の津(博多)等々、現在地に比定される地名もあるが、肝心の邪馬台国がどこにあったのかは判然とせず、江戸時代以来多くの論争を呼んでいる。邪馬台国がどこだったかは、学者に任せるとしても、ここ対馬壱岐も早くから稲作が行われていた。揚子江河口域に起源を持つ稲作が、どこからどんな風に日本(大和)に伝来したかは、学者の論考を待つ処だが、この稲作普及により、日本の歴史は大きく変わった。それ以前の青森、三内丸山に代表されるような縄文文化から、駿河の登呂遺跡、佐賀の吉野ケ里に代表されるような、稲作を中心とした弥生の時代に入って行った。

 

魏国の使節がこの島にやって来た時には、島では既に稲作が行われていて、富の集積も行われていた。酒造りも同時に入って来ていて、使節団はお酒の饗応を受けたに違いない。その酒造りの一族が京都山城に移り住んでお酒の神様、松尾大社の祖になったのは、広く知られている処だが、こうした稲作技術を持った集団が大和各地の登呂なり吉野ケ里に移り住んで、稲作技術を広めて行ったのだろう。弥生人は半島を経由してこの島に辿り着き、更に大和内地に広がって行った。京都山城を開いたのは秦氏と言われ、その秦族は遠く関東の地、相模の大山の麓、秦野に至り、その山頂にある大山阿夫利神社は関東総鎮護の神、大山祇大命が祀られ、酒造りの祖神でもあった。大分後年になるが、東大寺大仏を建立した良弁僧正も又ここの出身で、大山寺を開山し、その第3世住持には弘法大師が着任している。

 

奈良東大寺は8世紀聖武天皇が妻光明皇后の病気平癒の為に建立されたが、その東大寺様式で全国60カ国に国分寺が建立され、ここ壱岐対馬でも、国分寺に代わって島分寺が建立された。今日これから向かう金石城はその8世紀に建立された対馬島分寺の跡地に築城された。元寇の頃はまだ別の場所にあった山城程度のものだったが、秀吉の朝鮮の役の頃、宗氏によって本格的な城塞が築かれ、更に江戸時代になって、朝鮮通信使を迎える城として整備された。宗氏は元々は大宰府の帥(そち)出身と言われているが、室町の頃より対馬の島主として収まり、江戸時代を通じ対馬藩10万石の太守として続き、明治の廃藩置県以降も華族として遇せられた。宗は珍しい苗字であるが、茶道の家元、裏千家の宗千室もいれば、マラソンで有名な宗兄弟もいる。この3人の関連は自分には分からないが、ここ厳原には小茂田という地名もある。これも又苗字にあるが、珍しい。ルーツを知りたい処だ。フェリーターミナルからは歩いて10分、ほぼ町の中心部を通り抜け、この金石城にやってきた。

 

ここには天守閣は築かれず、平屋の館だった。今は庭園になているが、時間が無く城内には入らなかった。

 

天然記念物、ツシマヤマネコ。見る機会は殆どない。

 

金石城内の観光はパスして、その隣にある宗家の菩提寺、万松院に向かった。