ちゃおチャオブログ

日々の連続

西国観音霊場巡り(30)イザ本能寺へ。

法華宗大本山「本能寺」。正面の立正安国の石碑が新しい。



本能寺山門。本能寺の「能」の字は今は使われていない古い文字が使われている。
門の中の右手には宝物館の建物が見える。

 

本能寺本堂。昭和の建築だ。

 

 

イザ本能寺へ! 450年程前明智光秀が配下の兵約1万人を引き連れ、丹波亀山から本能寺に滞在する信長に謀反を起こし、攻め込んだ。「敵は本能寺にあり!」と。寝耳に水の信長は、矢傷を負いながらも防戦したが、攻め込んで来た相手が明智と知ると、「是非もない」と一言発し、火を放ちて奥の間に隠れ割腹自害した。この時本能寺は全焼となり、信長の死体は不明のままとなっている。世にこれを「本能寺の変」と呼ぶ。

 

その「本能寺の変」で全焼した元の場所は、今朝最初にやって来た四条大宮駅に近い方角にあり、そこから数キロ離れた現在の場所、寺町通りには秀吉の御代になって、再築されたのだ。しかしその再建後の本能寺も江戸時代を通じ数回の火災に遭って、現在の本堂は昭和に入ってからの建築された。境内はそれ程広くはなく、山門を入った直ぐの右手に宝物館の大きな建物があり、その正面に七度建て替えられた昭和の本堂がある。昭和初期の建造だからもう100年近く経ってはいるが、見た感じは新しい。この建物ではないとしても、450年前、信長が割腹自害し、本能寺は焼け落ちた、とのイメージが強く、今の建物が新しく思えるのか・・。

 

本堂正面に回り、礼拝し、裏の信長公墓に向かう。享年50歳。桶狭間の前夜、28歳の信長は熱田神宮にて幸若舞「敦盛」を踊り出陣した。「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」。それから20年、全土をほぼ手中に収め、安土にはキリスト教宣教師をも驚かす、度肝を抜くお城を築城し、もう既に影の薄くなっていた天皇をも凌駕する絶大の権力者になっていた。その信長がよもや股肱の武将光秀の謀反に遭うとは想定外のことだった。「是非もなし」。そうつぶやき、自ら命を絶って行った。

 

一代の英雄、人間50年の生涯だった。大きな石塔が正面にあり、その脇には森蘭丸の小ぶりな石塔も並んでいる。歴史にIFはないが、もし信長がこの時暗殺されずに、全国平定していたら、その後の日本はどんな風になっていただろう・・。信長公墓に深く一礼し、この場を辞した。

 

本堂の裏には信長公墓がある。人生50年、激しく生き抜いた。

 

墓の横には火伏の銀杏が葉を茂られせていた。

 

本能寺を後に次の札所、行願寺に向かう。