ちゃおチャオブログ

日々の連続

西国観音霊場巡り(32)行願寺を出て下御霊神社に参拝。

行願寺境内の石碑。文字が達筆で読めない・・。

 

沢山の花壇に囲まれた行願寺を後にする。

 

丸太町通りのバス停に向かう途中、珍しい名前の法律事務所の看板があった。

 

その直ぐ先に大きな鳥居がある。名前を見ると下御霊神社とある。

 

 

西国三十三観音霊場の中で、ここ19番札所行願寺が唯一の尼寺とは、ここへ来るまでは知らなかった。去年、四国八十八ケ所巡礼をしたが、1カ寺だけ阿波の大日寺が韓国系の尼寺だったが、それ以外には無かった。男女同権はお寺の世界にも張り込んできて、伝統と格式のある霊場でも、後を引き継ぐべき男児に恵まれなかったら、女児が剃髪して僧門にはいり、寺を継ぐ時代になってきたのだ。お寺とは言え、現代の波に洗われている。

 

この行願寺は別名革堂(こうどう)と呼ばれるように、丁度今から1000年位前に行円というお坊さんが今のこの辺りに最初の最初の草堂を創ったのだが、このお坊さんは出家する以前には狩猟を業とする猟師だった。ある時、山で雌鹿を射て、そのお腹から小さな子鹿が生まれ出て来るのを見て、世の無常を悟り、仏門に入った。その後、この鹿の皮を常に身にまとい、供養したとのことであるが、それによって行円は皮聖、皮聖人と呼ばれるようになり、この寺も革堂と呼ばれるようになったとの言い伝えがある。

 

革のお寺とは何か少し厳めしいイメージもあるが、その名前の謂れを知れば、女性の優しさ、母性の尊さが思い知られ、むしろ革堂はその優しさを象徴する言葉と思えるようになるのだ。そんなお寺に相応しく、境内には沢山の花壇が作られ、今は季節が終わったばかりで花は無いが、蓮の水盤が幾つも並べられた寺を後にする。まだ時間は早いが今日の歩きはここで切り上げてホテルに戻ることにした。

 

バス停のある丸太町通りに向かって歩いていると右手にかなり大きな鳥居が見え、中で何か縁日のような催しが行われている。9月3日が何の縁日かは分からないが、鳥居横の門表を見ると下御霊神社と出ている。鳥居の中には古めかしい本殿も見える。・・御霊神社、都を奈良から京に移転した桓武天皇の時代、都に疫病が流行り、その原因となる悪霊を鎮める為に天皇が創建された神社だ。だから先の行願寺よりも100年以上も古い。本殿は江戸時代に皇居の内侍所から移築されたものだ。古い神社ではあるが、参詣者も無く、縁日に集まる人も少ない。少子化、過疎化はこんな所にも押し寄せている。

 

悪霊退治の御霊神社、こんな所にあったのか・・。今日は縁日のようだ。

 

ちょっと中に入って見よう。それにしても参詣者も縁日客も少ない。

 

ああ、古そうな社殿。皇居から移築されたものだ。

 

縁日の金魚すくい。誰もいなくて、金魚屋さんも上がったりだ。