ちゃおチャオブログ

日々の連続

宮古の4日間(10)東平安名岬のマムヤのお墓。

土地の隆起物かと思っていた大岩は、海中から打ち上げられた津波岩だった。

 

大岩は内部がくり抜かれていて、日本風のお墓が経っていた。

 

解説文によれば、それは「マムヤの墓」と呼ばれ、絶世の美女マムヤが島の按司との恋に破れ、この岬で身投げした、とのことである。

 

 

沖縄には漢字の独特な読み方がある。それを沖縄方言と言うかどうか自分には判断できないが、知らない人が聞いたら、理解できない、チンプンカンプンに思うだろう。ここ東平安名岬も「東へんな岬」と読む。平安名は「へあんな」ではなく、「へんな」。これなどは、方言を知らない人でもある程度は理解できるが、ここへ来るまでの途中、道路標識に「城間」の地名が出ていた。助手席に座っていたネギさんが、「ありゃ、なんて読むんだ??」と頭を捻っていたが、普通に読めば「しろま」。だが、ここでは「ぐすくま」と読んでいる。

 

「城」を大和言葉である「シロ」とは言わず、ここでは「グスク」と読む。或いはそう呼ぶ。語源がどこから来ているのかは分からないが、先にこの島では砦のような場所を「グスク」と呼び、後で大和漢字の「城」を当てがったに違いない。沖縄本島に「中城村」という地名があるが、その集落には「中城(なかぐすく)」という立派な石造りの城塞があり、以前、そこを訪問したペリー提督もその堅牢な造りを感心していた。勿論、その村の名前は今でも「なかぐすく村」と呼ばれている。

 

岬の途中にあった大きな岩は、土地の隆起物ではなく、嘗ての大津波海上から打ち上げられた大岩だった。高さ3m程、円周10m程、重量は如何ほどあるのか想像もできないが、10トントラックに積んで運ぶのは出来ない程の大きさだ。これ程の大岩を持ち運んで来た津波のエネルギー。去年石垣島へ行った際に入った博物館で、明和の大津波で被災を受けた島の状況が展示されていた。江戸時代の明和年間、この地方を襲った八重山地震によって引き起こされた大津波は、石垣島の約半数の人々を押し流し、西表島を襲い、この宮古までやって来た。何時の頃からかその大岩は今は「マムヤのお墓」として、島の人々の信仰の対象になっている。

 

「マムヤ」と言う、聞きなれない名前の語源はどこからやって来たのかは、解説文にも無いが、岩は中がくり抜かれ、その中に大和風の墓石が建っている。それが「マムヤの墓」だ。岩の前の解説文によれば、マムヤは絶世の美女で、この島の統治者、ここでは按司と呼ばれているが、その按司と恋仲になり、その按司に妻子があったことから、自ら身を引き、この岬の先から投身自殺したとのことである。沖縄のお墓は通常は大きな亀甲墓が多く、そこに一門、門中が収まっているのだが、この様な大和風の墓石は珍しい。何時頃建立されたのかの解説はないが、いずれにしても明和以降のことだから、この島にも薩摩の間接統治が及んでいたのか・・。或いは、中国の冊封を嫌って、敢えて大和風のお墓にしたのか・・。伝説によれば、この美女「マムヤ」は平家落人のお媛様だったとか・・。琉球王朝の始祖が伊豆大島から逃げ伸びてきた源為朝との伝説とどこか一脈通じている面もある・・。この島に流れ続いている日本人の血脈に違いない。

 

海から20m以上もあるこの岬の上に、重さは数十トンもあるような大岩を持ち運んできた津波の威力。

 

明和年間、八重山地震によって、八重山地方は大きな被害を受けた。当時の津波で運ばれた岩石が水面に顔を出している。

 

膨大なエネルギーだったに違いない。