
戦後80年、丁度その半分の40年目に起きた航空史上最大の事故、御巣鷹から今日で40年目になる。あれからもう40年が経ったのだ。コロナ前になるが、今から5-6年前、Inaさんの運転で、吉さんと3人で、長野の伊東園に行った帰り、御巣鷹経由で帰って来た。御巣鷹は群馬県最北の上野村にあり、長野と県境を接する峠の郡馬側にあった。神流川源流の沢沿いを下って来て、大分下りて来た右側に御巣鷹の道路標示が出ていた。
何年も前から来るつもりでいたが、機会が無くこの時になった。長野の上山田温泉は以前にも来ていて、今回Inaさんからの提案を受け、今度行く時は、この御巣鷹経由で帰りたいとの希望を伝えていた。同行の吉さんも会社の同僚で、40年前このJAL機には同じ同僚の日永田さん家族も乗っていた。珍しい名前で、熊本のどこか田舎の出身らしいが、彼は優秀で高崎経済大学を出ていた。半年ほど前まで熊本支店の責任者を務めていたが、転勤で上野支店に移り、その最初のお盆休みで、家族全員で熊本への里帰りの途上だった。生憎熊本行の直行便が満席で、大阪乗換で福岡へ行く予定でこの便に乗っていた。
事故の報道を受け、社内では動揺が広がった。地方支店勤務が長く、東京では知る人はそれ程多くは無かったが、それでも熊本から東京へやって来て、その最初のお盆の帰省で、更に運が悪かったのは、熊本便が満席で、熊本へ帰る為にはこの大阪行きの事故機に乗らざるを得なかったのだ。
家族は奥さんと多分3歳程のお子さん、それに多分、次の子が生まれる予定になっていた。家族はこの事故で全員が亡くなった。地方在勤が長く、東京で彼と親密だった社員はいなかったと思う。東京から誰かが熊本の実家へ弔問に行ったとの話も聞いていない。彼の事故は1年もしない内に風化し、社員の中でも話題に上ることは無くなったが、それでも毎年この日になると御巣鷹がテレビで報道され、記憶を呼び覚ますことになった。
御巣鷹の山道は良く整備されていて、登り易かったのだが、足腰の弱った自分にはかなりの難儀だった。山頂に着く手前の山道のあちこちに遭難遺族が建てた墓標が見えて来た。520人からの犠牲者。機は山の稜線に激突すると同時にバラバラになり、乗客も周囲数百mの範囲に肉体もバラバラになって投げ飛ばされた。遺族はその発見された場所に碑を作り、石仏を建て、墓標を建てたのだ。日永田さんの墓標を探しつつ登った6543が、発見には至らなかった。500数十名の犠牲者だが、墓標はその1割、50もないだろう。日永田さんは家族全滅となり、墓標を建てる遺族もいなかったのか・・。
10分程登ると山頂の平坦広場に出て、休憩用の椅子なども置いてある。その広場の正面に大きな石碑、昇魂乃碑が立っている。人々はここで祈りを捧げるのだ。その奥には又大きな観音像も立っている。健脚の二人に既にお祈りも済ませ、尾根の更に上の方に登っている。自分の脚力ではここまでが精一杯で、碑に祈り、今になって実現できたことを伝える。事故の直前の責任者会議で、司会を務めた日永田さんの真面目な顔立ちを思った。今生きていれば、彼も還暦を過ぎ、そろそろ古希を迎えたか・・。
山の上のベンチに一休みする。もしも事故が無ければどんな社員生活、どんなその後の人生を歩んだかは誰も分からない。30後半で断ち切られた人生、しかし家族一緒にこの空気清浄な山中に祀られている。自分はもう登って来ることはないが、今日の日、慰霊祭はこの先もずっと続く。520人の3人として、人々の心の中に生き続ける。
