関ヶ原は名前通りに茫洋とした大きな平原だ。不破の関に広がる原だ。

東西両軍の配置図。ほぼ全国の武将が引き寄せられた。

歴史館でチケット制のお昼を食べた。

駅の途中にある西軍の大将の掲示板。多くはこの地で討ち死にした。

近世の日本の歴史を変えた関ヶ原の戦い。日本を二分する東西両軍の戦いは、僅かに1日で決着が付き、東軍総大将徳川家康が勝利し、その後の日本を260年間、戦の無い平和な国に造って行った。敗軍の将、何も語らず。西軍総大将石田三成はこの原の雑種地を逃げ惑い、最後は農民匪賊に首を掻っ切られ打ち果てた。広大な原は今は人の手で耕され、畑地になっている。芭蕉も最後の大旅行、奥の細道でこの地に立ち寄ったと思うが、その句はない。既に奥州平泉で「夏草や兵どもの夢のあと」を詠んでいるので、敢えてここでの筆は取らなかったのか・・。この直ぐ後、隣の大垣で長い旅は終わっている。
今朝その大垣から電車に乗ってやってきたが、電車の前方両側の山並が狭まって来て、僅かに残った平地を走り抜けて、ここ関ヶ原にやって来た。古来からこの地に関所が設けられ、不破の関、と呼ばれていたが、東西の人流、物流をこの地に集め、そこに関所を置くのは自然の理だった。この地も、これから向かう隣の垂井も古代、奈良の時代から不破郡と呼ばれ、その行政名は今に続いている。壬申の乱の大海人皇子も高市皇子を従え、奈良からこの地に逃れてきたが、天皇軍はこの関を破ることは出来ず、大海人皇子は後即位し、天武天皇となった。
< 古の 兵乂を思ふ 不破の関 >
関ヶ原町役場に向かい合うように歴史記念館が建っていて、その1階に大きなセルフレストランがあって、そこの自販機でうどんのランチを食べて、再び駅に向かって歩くことにした。春の陽光は外歩きに気持ちよく、足が悪い中でも良い散歩ができた。道路の途中に西軍の大将名が掲げられていた。その誰もが歴史に名を残した武将であるが、多くは敗残の将としてこの地で果てた。近代日本を作る為には大きな犠牲を必要としたのか・・。それは今でも言えるか・・。第2次大戦で、大きな犠牲を払って現代日本があり、欧州がある。駅で待つほども無く次にやって来た彦根発の電車に乗って、次の垂井で降りることにした。
近くには首塚の跡もある。

次にやって来たのは隣駅の垂井だ。

駅前には竹中半兵衛の像も建っている。この町の生まれらしい。

さて、旧中山道の宿場町を歩いてみようか・・。
