この寺の豪華な調度も多くの人々の喜捨によって作られている。
仏像以外にも絢爛の美がそこかしこにちりばめられている。
何とも形容しがたい。
あらゆるものが重文、国宝に見えてくる。
こうした厳かな雰囲気の中で、人々は霊感を感じるのだろうか・・。
大都市バンコクの有名な観光寺院へ行っても、或いは地方の田舎の名の知れない小さなお寺に行っても、どこへ行ってもタイ人の信仰心の篤さには驚嘆させられる。最近はタイ人の所得も上がって、着の身着のままという人は殆ど見かけなくなったが、それでも自分たちの贅沢を慎み、贅沢を減らした分より多くの喜捨を寺院に行い、大寺院も小寺院もどこのお寺も綺麗に豪華に飾られている。
今いるこのチェンマイの「ワット・ドーク」も同様で、多くの庶民の薄い財布の中身をはたいてまでして喜捨した浄財で、金ぴかの大仏や、真白のパゴダが建立されている。日本人とタイ人とは考えも宗教観も異なるものを持っているから、日本人が無駄とかもったいない、と思っている様々な喜捨も、彼等に取ってみれば進んで、且つ喜びの中で献納しているのであって、それは彼等の生き方の大きな柱の一つとなっている。
タンブン(ทำบุญ)、それは単なる喜捨ではなく、「善徳を積む」、「積善」のことであり、より多くのタンブンはより多くの救いを人々にもたらしている。弘法大師ではないが、結局人は裸で生まれ裸で死んでいく。タイの人々はこうして生きると言うことは解脱への道を歩むことだ、ということを生まれながらにして得心している人々なのかも知れない。欲望の強い、下司の塊のような自分にはとても真似のできないことである。
この寺でこうした純な人々の熱心な祈りを眺めているだけでも、この自分の濁った心も少しばかりは現れるような気分にもなった。
今いるこのチェンマイの「ワット・ドーク」も同様で、多くの庶民の薄い財布の中身をはたいてまでして喜捨した浄財で、金ぴかの大仏や、真白のパゴダが建立されている。日本人とタイ人とは考えも宗教観も異なるものを持っているから、日本人が無駄とかもったいない、と思っている様々な喜捨も、彼等に取ってみれば進んで、且つ喜びの中で献納しているのであって、それは彼等の生き方の大きな柱の一つとなっている。
タンブン(ทำบุญ)、それは単なる喜捨ではなく、「善徳を積む」、「積善」のことであり、より多くのタンブンはより多くの救いを人々にもたらしている。弘法大師ではないが、結局人は裸で生まれ裸で死んでいく。タイの人々はこうして生きると言うことは解脱への道を歩むことだ、ということを生まれながらにして得心している人々なのかも知れない。欲望の強い、下司の塊のような自分にはとても真似のできないことである。
この寺でこうした純な人々の熱心な祈りを眺めているだけでも、この自分の濁った心も少しばかりは現れるような気分にもなった。
僧侶の前で救いを求める女性。
家族の平安を願っているのだろうか・・。
ただ黙って瞑想する僧侶。
これは精巧に作られた蝋人形の僧侶。
うっすらと髭まで生えている。しかし瞬き一つしない。蝋人形に違いない。
是非善悪。悪行も善行も黙って見続けるエメラルド仏。