ちゃおチャオブログ

日々の連続

言論の自由とハシシタ。言論封殺に屈した朝日新聞社。

 
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3日前の金曜日、夕刻のテレビニュースに橋下大阪市長の異様な光景が映し出されていた。記者会見の場に居並ぶ記者を前に、朝日新聞を名指しし、その子会社の週刊朝日の記事を取り上げ、自身のプライバシーを取り上げた、佐野愼一氏の連載を強烈に批判し、この記者会見場から、親会社である朝日の記者の締め出しを宣言していた。正に言論の封殺である。
 
橋下氏の論法によれば、朝日新聞は子会社の週刊誌の言動、記事に責任を持つべきであり、別会社だからと言って、子会社が社会的に批難されるような記事を書いたりすれば、親として当然責任を持つべきであり、従って新聞社の記者の会見場入室は認めない、というものだった。
 
当時会見場にいた朝日記者の、資本関係があるとはいえ、週刊誌は独自の編集方針で運営されていて、新聞社としても容喙は出来ない、との弁明も、聞く耳を持たぬ橋下氏の一刀両断の元に、尻つぼみせざるをえない状況だった。
 
それが1日も経たない翌日の土曜日、即ち一昨日、朝日新聞社は謝罪の広報を出し、週刊朝日の連載を急遽取り止める、との方針を示し、橋下氏の鉾は収まったようである。
 
先月、松下某とかいう、民主連合政権の経済大臣が、翌日週刊新潮に掲載される自身の下ネタ話を苦に自殺したが、その時は、週刊新潮の記事にも興味もあったが、いずれにしても下世話な話であり、興味本位を出るものではなく、読んでも読まなくても、そんな記事一本で自殺してしまった邦国大臣のたわいのなさ、それが鹿児島男児と聞いて、猶更呆れたが、故人には申し訳ないが、その時はどうでも良いゴロネタ話と看過したが、今日の橋下氏の朝日に対する一喝、それに怖れをなた大朝日が、翌日は軍門に下る、というマスコミに取って由々しき問題があり、今日の午後、その週刊誌を読んでみた。普段週刊誌など読むことの少ない小生に取って、週刊誌を読むことは久し振りのことだった。
 
佐野愼一氏と言ったら押しも押されぬ作家、ジャーナリスト、評論家で、数々のドキュメンタリー、掘り下げた記事、事件の背景にある真実、或いは社会への警鐘、等々、評価の定まっている物書きであり、以前には孫正義氏の優れた人物史などもものにしている、当方の好きなライターの一人である。
 
週刊誌の見開き3頁ほどの記事であるからものの5分もしないで読みきれるが、成程、この記事の内容であれば、橋下氏が激怒するのも無理からぬものがあった。橋下氏以外に、同僚マスコミ人が、恰も濡れ犬を鞭打つがごとく一斉に批難しているのは、この記事の中に、被差別部落、即ち、橋下氏の父親が水平社あがり、ということをどこか良く分からない90歳のお爺さん(名刺には「男は珍棒、女は子宮で勝負する」と書いてあったとのこと)に言わせていることであり、成程、今でもマスコミ人にとっては、同和問題、非差別問題は、アンタッチャブルな問題と思わせるものであり、その驥尾に触れる記載ではあった。
 
橋下氏の父親が水平社上りかどうか、又、その親族の中に自殺や殺人者がいるかどうかは別して、記事全体は佐野氏一流の現状の日本、これからの日本の政治状況を危惧し、ポピュリズムに流れることを警鐘する内容であり、彼の鋭い洞察力に感心させらるものがあった。橋下氏の父親、身内の自殺や殺人は、どうでも良いことであった。
 
佐野氏がややセンセーショナルに傾き、週刊誌的手法で、プライバシーの一番触れてもらいたくない部分にまで立ち行って微に入り、細に渡って書き出したのは、やややり過ぎの感も無くはないが、佐野氏の指摘するように、もしも橋下氏が一般人で、単に市長とか府知事であれば、こうした暴露記事は差し控えられたであろうが、彼が維新の会という政党を作り上げ、これから国政に打って出て、将来的には総理の座まで狙っているとすれば、国民は当然橋下氏の人物像、その血脈から、人脈、成長の過程を知る必要がある。国政を運営する者であれば、それは個人の領域を越えて、公人としてのガラス張り状態でなければならない。非差別問題も法律上は解決されている問題なのだから、橋下氏も堂々と論ずべきである。
 
記事の中に、橋下氏のテレビ写りの際の明るい派手やかな顔立ちと、一転してその収録が終わった後の印象を以下の様に表現している。
 
「橋下はテレビカメラが回るとわざとらしい作り笑いを浮かべる。だがテレビカメラが回っていないとわかると、たちまち素に戻って暗い顔になる。この男は裏に回るとどんな陰惨なことでも平気でやるに違いない。」
 
佐野氏の慧眼は多分的を得ているだろう。第1回緊急連載「ハシシタ 奴の本性」が、橋下氏の市長会見場から朝日新聞社の記者が締め出されることにより、又記者会見に応じないことにより、第2回目以降の連載が中止されることになったが、これこそまさに権力の乱用であり、言論の封殺だ。
 
それに屈した朝日新聞社もだらしないものだが、こうした公の場がその時の権力者の恣意的な運用により、憲法で保障されている言論の自由表現の自由が封じられ、又、自ら権力者の飼い犬の如き存在に貶めた朝日新聞社マスコミ人としての堕落を大いに危惧する。佐野氏も多分、同じ思いをしていることだろう。
 
 
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