さて、これから西湖遊覧に出発!
三方を小高い丘に囲まれていて、丘の上には、それぞれ五重の塔が立っている。
ガイドの説明はないが、この塔も歴史的な背景があるだろう。
以前は無かったが、今ではこうした水上モニュメントや湖上をライトアップする装置も作られている。
今回のガイド陳さんは余り詳しい説明はしないが、15年前に来た時のガイドの説明によれば、当時、中国で一番高い土地は杭州だった。気候温暖な江南の地で、明清の時代から、この地は金持ちの避寒地であり、現代(15年前)に於いては、成功した金持ちなどが、この地で余生を暮せるのが、人生の目的だった、とか。
当時は湖上を遊覧する船やボートなどは今ほどもなく、かなり樹木の生い茂った蘇堤を歩いたが、ガイドの話しによれば、この蘇堤の根元付近には、毛沢東の別荘があるとか、当時の共産党の大幹部の名前を何人か挙げ、彼等は毛沢東に寄り添うように、競って別荘を建てたとのことである。
当時歩いたのは蘇堤であったが、今日は湖上の遊覧。いつの間にか、湖の中程に人工の島などが造られ、湖岸からその島に渡ってくる観光客が大勢見える。その人工島の先に白堤が見える。15年前は、蘇堤を歩いたが、この白堤には行かなかったので、翌日朝早く起きて、この白堤を散歩した。今、湖上の遊覧船からその白堤を眺め、15年前を思い出す。
蘇堤と白堤。二人とも、中国の漢詩の世界では、押しも押されぬ大巨人であるが、詩人の以前に科挙を優秀な成績で合格した有能な政治家であった。二人とも、この地、杭州のある越の国の太守となり、この西湖を分ける為の堤防を作ったが、その節度使としての白楽天、蘇東坡、の二人の名前を取って、白堤、蘇堤となし、後世に名を残すこととなった。
後年、明国が滅亡し、江戸時代初期、明の遺臣の多くが日本に亡命してきたが、その内の一人、朱舜水は水戸藩の庇護を受け、当時の水戸藩の藩邸があった江戸小石川の後楽園にこの白堤、蘇堤に似せて、規模も大きさも随分違うものだが、区切りの堤防を真似ごとのように作った、というのは有名な話であった。
そんな中で、湖上を遊覧していて思い出すのは、西湖と西太后とのことである。清末のゴッドマザーこと西太后はこよなくこの土地を愛し、愛で、後年の大半をここで過ごしたと言われる。また、この西湖に似せて頤和園を作らせた、とも言われる。同じ西の文字を使うから彼女がこの湖を愛したのかどうかは知らないが、そんなゴロ合わせは抜きにしても、この土地は、古く唐代より、文人墨客、或いは、政治家、資産家に好まれてきたが、今はこうして庶民にまで広く開放されちるのは、これもまた時代の流れと言えるだろう。
当時は湖上を遊覧する船やボートなどは今ほどもなく、かなり樹木の生い茂った蘇堤を歩いたが、ガイドの話しによれば、この蘇堤の根元付近には、毛沢東の別荘があるとか、当時の共産党の大幹部の名前を何人か挙げ、彼等は毛沢東に寄り添うように、競って別荘を建てたとのことである。
当時歩いたのは蘇堤であったが、今日は湖上の遊覧。いつの間にか、湖の中程に人工の島などが造られ、湖岸からその島に渡ってくる観光客が大勢見える。その人工島の先に白堤が見える。15年前は、蘇堤を歩いたが、この白堤には行かなかったので、翌日朝早く起きて、この白堤を散歩した。今、湖上の遊覧船からその白堤を眺め、15年前を思い出す。
蘇堤と白堤。二人とも、中国の漢詩の世界では、押しも押されぬ大巨人であるが、詩人の以前に科挙を優秀な成績で合格した有能な政治家であった。二人とも、この地、杭州のある越の国の太守となり、この西湖を分ける為の堤防を作ったが、その節度使としての白楽天、蘇東坡、の二人の名前を取って、白堤、蘇堤となし、後世に名を残すこととなった。
後年、明国が滅亡し、江戸時代初期、明の遺臣の多くが日本に亡命してきたが、その内の一人、朱舜水は水戸藩の庇護を受け、当時の水戸藩の藩邸があった江戸小石川の後楽園にこの白堤、蘇堤に似せて、規模も大きさも随分違うものだが、区切りの堤防を真似ごとのように作った、というのは有名な話であった。
そんな中で、湖上を遊覧していて思い出すのは、西湖と西太后とのことである。清末のゴッドマザーこと西太后はこよなくこの土地を愛し、愛で、後年の大半をここで過ごしたと言われる。また、この西湖に似せて頤和園を作らせた、とも言われる。同じ西の文字を使うから彼女がこの湖を愛したのかどうかは知らないが、そんなゴロ合わせは抜きにしても、この土地は、古く唐代より、文人墨客、或いは、政治家、資産家に好まれてきたが、今はこうして庶民にまで広く開放されちるのは、これもまた時代の流れと言えるだろう。