ちゃおチャオブログ

日々の連続

さまざまなタイ旅行(87)生類憐みのラカン寺(วัดระฆัง)。

ワット・ラカンはチャオプラやー川に面している。
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両岸を往復するフェリーは絶え間なく往来している。
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フェリー乗り場の地近くでは、魚の店屋が沢山出ていた。
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まあ、一体何軒の子魚店があるのだろう。
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餌を求め沢山の鳩が飛んでくる。
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人と鳩が一緒になって楽しんでいる。
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いやー、すごい数の魚で水面も盛り上がっている。
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日本での動物愛護は徳川第5代将軍綱吉公を嚆矢とするが、それは徳川太平の世、元禄年間の頃だった。元々綱吉公が戌年生まれで、お犬様、犬公方などと呼ばれていて、犬への愛着が強かったが、正類憐みの令を公布するに当たっては、その背景に仏教の殺生思想があったとも思われる。

敬虔な仏教徒上座部仏教を信奉するタイでは、今でもこの生類憐みの思想は国民の間に広く行き渡っていて、数年前、ピマーイの郊外にある国立天然記念物「サイガーム」(ไทรงาม)を訪問した際、その林の中のあちこちで、タライの中に入れられた子魚が泳いでいて、親子連れがやってきては、その子魚を買っては池に放していた。よく見ると周りには鳥籠もいっぱいあって、小鳥が沢山駕籠の中にいる。この林の遊歩客は立ち止まっては、駕籠から1羽2羽の小鳥を買い上げ、空に放っている。

ここには特別なお寺などはなくバンヤンツリーの天然自然木の林であったが、タイ人は、こうした場所でも憐みの気持ちを持ち、駕籠に閉じ込められた、或いはタライの中で窮屈にしている小動物を自由にさせてやりたい、との気持ちを持っている。これこそ綱吉公が望んでいた生類に対する慈悲の気持ち、仏教の神髄ではないかと思い、自分もタイ人の真似をして小鳥を2羽買い、空に放ってやったが、得も言えぬ気持にもなった。

ラカン寺の境内からフェリー乗り場に向かう途中の 境内の外では、そうした小鳥屋、魚屋の出店が繋がっている。これからバンコクに帰る人を待ち構えているように、人々の慈悲を求めている。タイの人は子供の頃からそうした習性に馴染んでいるのだろう。見ているとかなりの人が子魚を買い、ボールに写してもらい、いそいそとそのボールの水をチャオプラやーに注ぎ込む。勿論その中の子魚と一緒にだが・・。

鳩が群れ、餌を求め羽音が激しい。漸くやって来たフェリーのエンジン音も打ち消す程だ。これも命、今日を生きている。数多流れるホテイの浮草。物言わずともホテイの命。ぷかぷかと、青々と。本当は長閑ではないのかも知れない。もうちょっと流されれば、もう河口で、その後は塩海の墓場に入るのだろう。明日の命を知ってか知らずか、魚も鳩もホテイも今を生きている。
それを待ち構えているかのように、サワイ魚、プラ―サワーィ( ปลาสวาย)が群れを為し、川面も盛り上がるように集まってきて、瞬く間にそれらの子魚を食い尽くす。仏教輪廻の中に今がある。放たれるのも慈悲、食い尽くされるのも慈悲、生きとし生けるもの刹那がそこにあった。
 
 
 
 
高校生もお参りに来ているのか。
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タイの女子高生。
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いろいろな人がタンブンを行っている。
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タンブンに喜びを感じている恋人たち。
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ここへ来ると恋人も皆仲良しになる。
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ああ、何とも言えない良いお寺だった。 又次にも来よう。
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フェリーがやって来た。もうそろそろ戻ろうか・・。
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