ちゃおチャオブログ

日々の連続

ビルマ・マンダレー特急旅行(50)インワの遺跡。

馬車に揺られて20分、インワの遺跡に到着する。
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すこし傾いた感じの塔へ、危なっかしい鉄の階段を上る。
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イラワジの対岸にはザガインの仏塔が見える。
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イラワジの平原が続いている。
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近くにはインワの遺跡の跡も残っている。
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最近タイを旅行しだすようになってから、タイの歴史については多少知るようになったが、昔の日本人のアジアに関する知識と言ったら、隣国の中国、それからずっと先のインド位で、それも仏典を通してのものだが、この中国とインドの間に挟まれた東南アジアの国々など殆ど知ることもなく、ましてやそこに高度な文明が存在していたなどは知る由もなかった。そもそもこの辺の地域は南蛮貿易の相手国程度にしか考えられていなかった。

南蛮貿易の最遠国はシャム湾の内側、マレー半島のスンガイコロクやアユタヤ辺りまでで、マラッカ海峡を越えてインド洋、アンダマン海まで行くことはなかったので、その先にあるミャンマーなど、当時の日本人にはその存在すらも知られていなかったに違いない。

そのミャンマーが近年脚光を浴びたのは、第2次世界大戦時、日本軍が開戦直後にシンガポールを攻略し、この地のイギリス軍を追い払ってから、その植民地下にあったミャンマーに日本軍が進駐することとなり、更にその後インド攻略を企て、世にいうインパール作戦の元に多大な将兵の犠牲を生んだが、戦後、その惨禍、惨劇を小説にし、更に映画化もされた竹山道雄による「ビルマの竪琴」によるところが多い。

俗にいう「飢餓街道」。野ざらしにされた戦病死者の遺体が道路の両側に放置されたままで転がされ、南国故直ぐにも蛆が這いずる遺体を収容し、供養のための竪琴を奏でる一人の元日本兵僧侶。学校映画にもなったので、多くの国民が見たと思うが、その戦争の惨禍とビルマと言う仏教国の人情の優しさ。この映画に寄って日本人とビルマとの関係は急速に近まったと思う。

馬車に揺られ小半時、ポコポコと田舎道を走ってきた先にインワの遺跡があった。ビルマの歴史については殆ど無知蒙昧に等しく、この遺跡がいつ頃、誰に依って建造されたのか、などは全く分からないが、そのインワの塔は雑草の生えた草原の中に置き去りにされたように立っていた。


御者の勧められるままに少し傾いたその塔に登る。錆びついた鉄製の階段が今にも底が抜けそうで、穴の開いていないところにステップして塔屋に上がる。僅か20m程の高さだが、周囲に高い樹木や建造物もないので、平原の雑草地を遥かに見渡せる。このインワの王国が滅んで何百年になるのか・・。近い処では戦争に負けた日本軍が逃げ惑っている。この情景を見ていると芭蕉の「つわもの共の夢」を思い出す。

考えてみれば、今回の旅行はその「飢餓街道」をずっと北上し、ミッチーナ、英語流にいうと「MeatChina」まで行き、悲惨なインパール作戦で落命した多くの将兵の痕跡を求める筈だったのだが、日程が短く、僅か今日1日のマンダレー周遊
で終わってしまうが、それはそれでやむを得ない。いつか行くこともあるだろう。殆ど風もなく、草もなびかず、又町の騒音も響いて来ない静寂な雑草地に向かい、静かに手を合わせこれ等の霊を弔った。
 
 
 
滅んだ王国の子孫がまだ守り続けているのか・・。
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塔の周囲を遺跡が取り囲んでいる。
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広大なイラワジの沖積平野。 遠くにイラワジ川が見える。
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静かに両手を合わせ塔を去る。
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遠方から眺めるインワの塔はピサの斜塔程も傾いている。
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