ちゃおチャオブログ

日々の連続

「沖縄の4日間」(4)世界遺産「首里城」。

琉球城の城門、歓会門。日本の城で言えば、大手門に当たる。
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首里城、全体図。
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この石組みは見事だ。
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高い石垣が巡らされている。
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ペリー提督も嘗てこの石垣を評した。
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去年中国寧波を旅行した時、そこには朝鮮・李朝王国の館跡が現存していたが、同様に琉球王国の外交館もどこかにある筈だった。しかし探し得なかった。それ程大きな規模のものではなかったのかも知れない。当時寧波は日本留学僧の中国での最初の寄港地であったが、日本国の在外公館はそこにはなかった。だからと言って日本僧が琉球王国津梁館に立ち寄ることもなかった。当時日本国と琉球王国は別々の国だったからである。

中国唐宋時代には琉球はまだ影も形も出来ていない単なる島だったが、漸く明代になって国が統一され、中国との外交を持つようになった。琉球王国の誕生である。この琉球島を統一したのは、尚巴志であり、今目の前にある南山・首里城の主となった琉球王国国王ある。

こうして見ると確かに立派な石垣だ。日本の名城作り、藤堂高虎に従った穴太の石工は半島からやってきた技能集団と言われているが、ここ首里城の石組みにしても中国伝統の技能が取り入れられているのだろう。秦の始皇帝以来の万里の長城の石組みは2000年に亘って、脈々と引き継がれ、この沖縄の地において、立派に開花している。

嘗てペリー提督が浦賀に来航する以前、この沖縄の地を訪れ、中城の城跡を見て、その石組みの見事さに感嘆した一文が残っているが、その石組みの曲線美は今も現存し、観光客の目をくぎ付けにさせている。

首里城は過去数回来ているので、今回はネギさん、吉さんだけ城内に入ってもらい、当方と稲さんは外で待つことにしたが、嘗て、ここは琉球大学のキャンパスだった。全国各地のお城は廃藩置県で打ち壊されて、陸軍師団、連帯本部の敷地にされたが、ここ首里城は明治の破壊をまぬがれ、沖縄戦直前までその優美な城郭は国宝に指定されていた。しかし、沖縄戦に際し、陸軍がこの城内に指令本部を置いたことによって、米軍からの徹底的な攻撃を受け、徹底的に破壊され尽くされた。

戦後、各地の師団司令部は新設の地方大学キャンパスに衣替えしたが、ここ首里城も城郭は見事に復旧され、琉球大学が設立され、そのキャンパスとなった。その大学も暫らく前に別の場所に移転し、今は嘗ての首里城として再建され、世界遺産にも登録されている。この優美な石垣はそうした時代の流れ、歴史の変遷を眺め続けてきたに違いない。
 
 
 
 
首里城下の龍譚池と弁天堂。
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池に遊ぶ変わった種類のアヒル
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内地では殆ど見かけない種類のアヒルだ。
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池の方角から眺める城壁。
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ここも又見事な曲線美だ。
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