ちゃおチャオブログ

日々の連続

江南10都市巡りの旅(46)豫園にて。

国の重文となっている「豫園」。
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この様な飾りの回廊を進んで行く。
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三穂堂。・・三つの穂とは・・。
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太湖石の説明をする添乗員の陳さん。この石碑も又江沢民の揮毫によるものだ。
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太湖石で作られた庭に出た。
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康熙帝が幼少の頃遊んだ石庭だ。
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中国を代表する庭園「豫園」。少なくとも江南随一の名園と言われている。この広大な庭が皇帝でもなく国王でもない、一般の成功した役人の手により作られたということは驚きだ。中国が昔からそれ程の賄賂社会と言ってよいのか、役人とは言えトップの座に上り詰めれば絶大な権力が得られると言うのか。今から450年程前、当時、明の中央政府の役人によりこの庭園は建設されたのだった。

以前来た時のガイドの説明は大半は忘れてしまっているが、この庭園で特筆すべきは太湖石の多さとその大きさだ。今日は又陳さんの説明に従って、その迷路のような回廊を進んで行く。建物と言い庭石と言い手が込み、値が張っている。流石、当代一流の金持ちにより作庭された名園だ。

ここには清の時代、北京から大運河(京杭運河)を船に乗って歴代多くの皇帝が訪れてきた。中でも康熙帝はここの庭が気にいったようで、何回も来ている。庭園には康熙帝が座った玉座(ストール)とか休んだ部屋なども当時のままに残されている。乾隆、康熙の頃が清朝で最も繁栄した頃で、有り余るお金で太湖石など買い漁っていたのだろう。ここにある石は1個で、上等な家1軒が建つ位に高価なものだった。過去形で言うのは、今はもう全く売買されていないからだ。

康熙帝が座して眺めた石の池。康熙帝は子供の頃、父帝に連れられ、この庭で遊んだと言う。成人となり大中華の皇帝となり、今国威は大元帝国と並ぶものになっている。康熙がこの石庭を見て何を想っていたのか詮索するのは埒外だ。ただ心の平安を求めてていただけだったかも知れない。

太湖石と言っても一般の日本人には馴染みも薄く、その価値は殆ど知られていないが、中国人にとっては、傾城の一つで、この庭にこれだけ沢山の太湖石が集められているということは、この庭自体が中国人にとっての最大の至宝かも知れない。
 
 
 
 
同行のメンバーも感心しきりである。
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通路の床石も凝っている。
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次から次に石庭が現れる。
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太湖石が無造作に積み上げられている。
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中国人ではないので、その価値は分からないが・・
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庭園の素晴らしさはまだまだ続く。
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