ちゃおチャオブログ

日々の連続

「沖縄の4日間」(9)勝連(与勝)半島へ。

朝食前に散歩した崇元寺は今は静かな公園になっている。
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琉球王朝時代、中国の使者はここで下馬し、首里城まで行った。
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その当時の状況が説明されている石碑。
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ホテルでの朝食バイキング。
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沖縄4日間の旅行の内、今日と明日の二日間に限ってはレンタカーを借りて島めぐりをする予定だ。那覇を中心に島を南北に二分し、今日は島の南半分、明日は北の半分を巡ることにした。ホテルの朝食はバイキングで、宿泊代金の割には、まあまあの食事で、いろどり緑いろいろと食べられたが、小職後、早速レンタカーにて島の南を廻ることにする。

先ずは、昨日行った首里城の横の道路を通り、島の東側、即ち太平洋を望む海岸線に出る。首里城を通り過ぎると前に海が見えてくる。太平洋だ。大きく孤を描いた湾になっているが、これが有名な中城湾。「中城」と書いて「ナカグスク」と読む。「城」を琉球語では「グスク」と発音するが、古い日本古語のグシクから来ているらしい。

この中城湾の何が有名かと言うと、太平洋戦争末期の沖縄戦で、日本海軍、連合艦隊に残った艦船と言ったら、もう大和位しか残されておらず、この戦艦大和が沖縄を死守する為、片道燃料で呉を出航し、この中城湾の浅瀬に乗り上げ、擱座した状態でその45インチ砲をぶっ放す、という、途方もない作戦計画の中で、この湾が選ばれたのだった。確かにここに擱座していれば両翼は幅広で、太平洋に向かって両手を広げるような形で睨みを利かすことが出来たかも知れない。規模、状況は異なるが、衣川の弁慶の仁王立ちのような感覚だ。

しかしその大和もここに辿り着く以前に奄美群島、喜界島沖で会えなく轟沈され、日本海軍は既に戦う術を全く有していなかったが、それでも戦争を継続し、その後の沖縄戦における20万人からの死者、国内外の合計300万人を越える軍民合わせての死者を思うと、当時の戦争遂行者、指導層の無知、無能を思わざるを得ないのだが、今こうして穏やかな中城の海を眺めていると、そうした過去も遠くに押しやられ、平和な太平洋が広がっていた。

戦後沖縄が米国施政下に置かれ、この湾の一番奥深くの場所に米国石油メジャー,Caltex、Mobile,Shell等の名だたる企業の広大なタンク群が建設されたのも、又、平和の象徴だったのか。

湾の横に棒のように沖に突き出ている勝連半島を先端まで行き、以前は綺麗な白い砂浜で覆われていた小さな島々、平安座(へんざ)、宮城、伊計、浜比嘉、等々の島も今は海中道路で結ばれていて車で簡単に行くこともでき、取り敢えず、一番先端の藪地島まで行き、浜に下り、引き返すことにした。さて、いよいよ南部戦跡、摩文仁に向かおう。
 
 
 
 
さて今日の観光は中城湾周辺のドライブから。
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広大な太平洋が広がっている。
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さて浜辺に下りてみよう。
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島は海中道路で結ばれ、かなり人工的になっている。遠くに見えるのが勝連(与勝)半島。
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浜辺で記念写真を1枚。
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摩文仁に向かう途中での食堂で昼飯を食べる。このボリューム!
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