ちゃおチャオブログ

日々の連続

「沖縄の4日間」(12)沖縄戦没者慰霊霊園にて。

摩文仁の丘の断崖を眺めた後、慰霊の碑(いしぶみ)に向かう。
イメージ 1
 
 
前方に碑が見える。
イメージ 2
 
 
数多くの碑が建っている。この碑は自分が沖縄を離れた後に新たに出来たものだ。
イメージ 3
 
 
ああ、高校性の一団がやってきている。
イメージ 4
 
 
戦没者の指名が一人づつ刻まれている。
イメージ 5
 
 
 
 
太平洋戦争時、国内で唯一の戦場になったのは沖縄で、地上戦の悲惨さは、先刻の摩文仁の丘の断崖を覗けば、誰しも思い浮かばれることである。戦争の悲惨さはここ沖縄だけに限らず、ガタルカナル、ビルマ戦線、キスカ、アッツ、サイパン等々あちこちで経験しているが、民間人、即ち沖縄県民の多大な犠牲を強いたのは、この島において他ない。

マッカーサー連合国軍司令長官に率いられた連合艦隊、2000艦以上の艦船がこの小さな島を取り巻き、ありったけの艦砲射撃を行い、圧倒的な戦力の違いで、この島を南北に分断し、制圧して行った。牛島満中将を司令官とする沖縄守備軍は既に戦備も戦力も無く、島を逃げ惑うだけの軍隊であったが、その継戦目的は、唯一、連合国軍の本土進攻を1日も遅らせることにあり、半ばゲリラ的先鋒で、足止めを図るものだった。

本来戦争出来る状態ではなく、連合国
軍上陸時点で白旗を上げるべきであったが、軍中央部、参謀本部の命令に従わざるを得なかった守備軍は、一兵も残らぬ人海戦術、消耗戦を継続した。軍人だけであればそれでも良かったかも知れない。あちこちの戦線で、既に玉砕戦法が採られていたからである。しかしこの島の悲劇は民間人を巻き込んだことにあった。

今目前に戦没者慰霊の碑(いしぶみ)の前に立っている。官民合わせて10万人以上の犠牲者の名前がこの各県別に作られた碑に刻まれている。遺族はここに来て、碑に刻まれた故人の名前をなぞり、悲惨さを思い、慰霊する。沖縄戦終結して今年で68年目。遺族、関係者が生きている限り、繰り返し、行われていくだろう。

今修学旅行の高校生の一団が教師に引率され、碑の前に立っている。祈りを捧げている。二度と起こしてはならない戦争。彼等若者の胸中にも戦争の悲惨さは深く刻まれたことだろう。日本の若者は一度はこの摩文仁の丘、慰霊の碑の前に立つべきだ。そうして二度と繰り返してはならない悲惨さを深く思うべきだ。青い海と太陽。この平和の有難さを認識すべきである。
 
 
 
 
遺族にとっては、忘れ難い碑となっている。
イメージ 6
 
 
慰霊碑の前で深く黙祷を捧げる高校生。
イメージ 7
 
 
広大な霊園の中に無数の石碑が立っている。
イメージ 8
 
 
さてこれから各県別の慰霊碑の丘に上る。
イメージ 9
 
 
ああ、ここは昔と変わっていない。
イメージ 10