閑散とした駅前目抜き通り。
郊外に大型店舗ができてからは、この通りも地方の例にもれず、シャッター通りとなっている。
駅から程近いところにある八坂神社。
社は立派な権現造りになっている。
境内の忠魂碑とその傍らで遊ぶ近所の子供達。
静かな龍泉寺境内。
ここは別名龍ヶ崎観音とも呼ばれている聖観音堂。
境内にある水子供養の鈴が風に揺れている。
古城址の峰の上は今は高校になっている。
龍ヶ峰、古城址の変遷を綴った石碑。
古城址より北総の地を眺める。
龍ヶ崎には過去2回来たことがあった。随分以前に車でこの町を通りがてら、町の郊外にある「一言主神社」に立ち寄った時だが、それは龍ヶ崎ではなく隣町の水海道だったかも知れない。それから数年前にも、この町の警察署か裁判所へ来た時だが、その時は駅からタクシーで往復しているので、未だ嘗てこの町をゆっくり歩いたことはなかった。
日曜日の今日、所要でこの町に来たが、仕事は午前中に終えたので、午後の一時、この町を歩くことにした。歩くと言っても何も特別にガイドブックなどがある訳ではなく、駅前にあった大きな市内観光案内板を眺め、興味深そうな場所を選び、歩くことにした。
この町は明治の後半、東京ー水戸間に常磐線が敷設された際、何らかの事情でこの町に駅を作ることが出来ず、結果、常磐線はこの町を通らずして、その後、町の発展は遅れ、今は過疎化の代表のような町になっているが、その代わりでもないが、常磐本線の佐貫駅との間に1900年に竜ヶ崎線が引かれ、竜ヶ崎駅との僅か10分にも満たない乗車は、北総の田園風景を楽しませてくれるものがある。
駅前から1本真っ直ぐ伸びる道路。これが嘗てのメインの通り、この町の目抜き通りであったが、今日は日曜日だからなのか、いや、曜日を問わずいつもこんな感じなのか、多くの店舗がシャッターを閉じ、人通りもまばらだ。町の郊外に大型店舗が出来、デイスカウントショップがあちこちに出来ている今となっては、この通りの小売店で買い物する人は限られているのだろう。
過疎化の代表のような嘗てのメイン、銀座通りを駅から真っ直ぐ歩く。方向は良く分からないが江戸崎の方向だろう。空き店舗だったり、家が傾いたり、或いは既に取り壊されて歯の抜けたような空き地があったりする通りを暫らく歩くと、右手に「八坂神社」の木立が見えてくる。京都八坂社から請来分祀したであろうこの神社、古い社は権現造りになっていて、この町の産土神になっているのだろう。境内には鉄砲の弾を象った忠魂碑などもあり、近所の子供達が、その碑の周りでかくれんぼなどして遊んでいた。長閑な風景である。
その少し先、国の有形文化財にもなっている小野瀬家の大きな屋敷の直ぐ先に「龍泉寺」がある。別名「龍ヶ崎観音」と言われ、聖観音を祀る観音堂があって、その御堂の横には水子を供養する石仏が数百体も奉納されている。今日もまた若い夫婦が一組、安産祈願に訪れていた。
この観音堂の道路を隔てた向かい側には検察庁、裁判所の建物もあり、水戸地検並びに地裁のそれぞれの支部になっている。明治の頃、嘗てのこの町は司法機関の支部が置かれるほどの重要な町であったに違いない。僕の知人に唯弁護士がいるが、彼はこの町の出身。こうした司法関係を身近に見て育ち、後年弁護士の道を歩むようになったのかも知れない。
通りの左手にちょっとした小山がある。戦国時代以前、この町に竜ヶ崎城があったことは何かの本で知っていたが、その岡が古城跡だ。古城址の上から北総を眺めてみよう。その岡の下まで行くと、長い石段が伸びていて、岡の上は今は龍ヶ崎第二高校となっている。佐倉城の跡の台地が一時は陸軍佐倉連帯の本営となり、今は民族博物館になっているように、全国の城址は廃藩置県後その多くは軍隊の駐留する場になったか、県庁舎、市庁舎の占める場所になったが、ここ茨城は水戸城が県庁、裁判所となり、この龍ヶ崎では学校となっている。茨城の歴史の変遷を感ずるものがあった。
龍ヶ峰。嘗て龍ヶ崎氏の居城であり、藤原秀郷の流れを汲んだ名家も戦国の波にもまれ、一時は土岐氏、佐竹氏と代替わりしたものの、江戸時代には仙台伊達藩の飛び地となって明治を迎えたものである。この岡の上、現県立龍ヶ崎第二高校前の門頭、龍ヶ峰から北総の地を眺め、1000年の攻防の歴史を思った。
古城址の麓には広い敷地の中に小学校があり、昭和初めの県知事吉永氏の揮毫による当該小学校が八坂神社の境内よりこの場所に移転した記念碑を眺め、流石、学問の地、水戸の枢要な町だけのことはあるものと感心させられた。
ここから駅に向かう途中、曹洞宗の古刹大統寺があり、少しばかり境内を散策し、駅に向かった。駅前に、前回来た時には気にはなっていたが立ち寄れなかった薬師堂を今日はゆっくりお参りし、如来に祈願した。境内の入口に安置されている菩薩のハスの花を象った石を元の位置に直し、この町を後にした。今日は充分な時間がなく、来迎院の多宝塔にお参り出来なかったのは、心残りでもあったが・・。
日曜日の今日、所要でこの町に来たが、仕事は午前中に終えたので、午後の一時、この町を歩くことにした。歩くと言っても何も特別にガイドブックなどがある訳ではなく、駅前にあった大きな市内観光案内板を眺め、興味深そうな場所を選び、歩くことにした。
この町は明治の後半、東京ー水戸間に常磐線が敷設された際、何らかの事情でこの町に駅を作ることが出来ず、結果、常磐線はこの町を通らずして、その後、町の発展は遅れ、今は過疎化の代表のような町になっているが、その代わりでもないが、常磐本線の佐貫駅との間に1900年に竜ヶ崎線が引かれ、竜ヶ崎駅との僅か10分にも満たない乗車は、北総の田園風景を楽しませてくれるものがある。
駅前から1本真っ直ぐ伸びる道路。これが嘗てのメインの通り、この町の目抜き通りであったが、今日は日曜日だからなのか、いや、曜日を問わずいつもこんな感じなのか、多くの店舗がシャッターを閉じ、人通りもまばらだ。町の郊外に大型店舗が出来、デイスカウントショップがあちこちに出来ている今となっては、この通りの小売店で買い物する人は限られているのだろう。
過疎化の代表のような嘗てのメイン、銀座通りを駅から真っ直ぐ歩く。方向は良く分からないが江戸崎の方向だろう。空き店舗だったり、家が傾いたり、或いは既に取り壊されて歯の抜けたような空き地があったりする通りを暫らく歩くと、右手に「八坂神社」の木立が見えてくる。京都八坂社から請来分祀したであろうこの神社、古い社は権現造りになっていて、この町の産土神になっているのだろう。境内には鉄砲の弾を象った忠魂碑などもあり、近所の子供達が、その碑の周りでかくれんぼなどして遊んでいた。長閑な風景である。
その少し先、国の有形文化財にもなっている小野瀬家の大きな屋敷の直ぐ先に「龍泉寺」がある。別名「龍ヶ崎観音」と言われ、聖観音を祀る観音堂があって、その御堂の横には水子を供養する石仏が数百体も奉納されている。今日もまた若い夫婦が一組、安産祈願に訪れていた。
この観音堂の道路を隔てた向かい側には検察庁、裁判所の建物もあり、水戸地検並びに地裁のそれぞれの支部になっている。明治の頃、嘗てのこの町は司法機関の支部が置かれるほどの重要な町であったに違いない。僕の知人に唯弁護士がいるが、彼はこの町の出身。こうした司法関係を身近に見て育ち、後年弁護士の道を歩むようになったのかも知れない。
通りの左手にちょっとした小山がある。戦国時代以前、この町に竜ヶ崎城があったことは何かの本で知っていたが、その岡が古城跡だ。古城址の上から北総を眺めてみよう。その岡の下まで行くと、長い石段が伸びていて、岡の上は今は龍ヶ崎第二高校となっている。佐倉城の跡の台地が一時は陸軍佐倉連帯の本営となり、今は民族博物館になっているように、全国の城址は廃藩置県後その多くは軍隊の駐留する場になったか、県庁舎、市庁舎の占める場所になったが、ここ茨城は水戸城が県庁、裁判所となり、この龍ヶ崎では学校となっている。茨城の歴史の変遷を感ずるものがあった。
龍ヶ峰。嘗て龍ヶ崎氏の居城であり、藤原秀郷の流れを汲んだ名家も戦国の波にもまれ、一時は土岐氏、佐竹氏と代替わりしたものの、江戸時代には仙台伊達藩の飛び地となって明治を迎えたものである。この岡の上、現県立龍ヶ崎第二高校前の門頭、龍ヶ峰から北総の地を眺め、1000年の攻防の歴史を思った。
古城址の麓には広い敷地の中に小学校があり、昭和初めの県知事吉永氏の揮毫による当該小学校が八坂神社の境内よりこの場所に移転した記念碑を眺め、流石、学問の地、水戸の枢要な町だけのことはあるものと感心させられた。
ここから駅に向かう途中、曹洞宗の古刹大統寺があり、少しばかり境内を散策し、駅に向かった。駅前に、前回来た時には気にはなっていたが立ち寄れなかった薬師堂を今日はゆっくりお参りし、如来に祈願した。境内の入口に安置されている菩薩のハスの花を象った石を元の位置に直し、この町を後にした。今日は充分な時間がなく、来迎院の多宝塔にお参り出来なかったのは、心残りでもあったが・・。