ホテルに荷物を預け、これからモノレールに乗って首里城見物に行く。



首里城へ向かう途中の道路上に見えた「将来2階」の建物。


那覇空港からはゆいレールに乗ってホテルまで来たが、まだ時間が早くチェックインできない。荷物をホテルに預け、早速市内観光することにした。こうした時、1日乗り放題のモノレールチケット券を買っておいたのは正解だった。これから又牧志駅に向かい、先ずは世界遺産、首里城へ向かうことにした。
「ゆいレール」については、沖縄在住の県民も余り乗ったこともなく、知らない人もいるが、これは沖縄から古くある助け合いの気持ち「ゆい」から来ている言葉であり、漢字で書くと「結い」。団結、結合のことであり、このモノレールが出来る以前のポピュラーな言葉としては「ゆいまーる」があり、云わば「助け合い運動」のことだ。以前この「ゆいまーる」がタイを旅行した時、同じ意味合いで使用されていたのを見た時には、感動した。
こうして沖縄に戦後初めて出来た鉄道が「ゆいレール」であるが、元々沖縄は車社会。どこへ行くにも車で用が足せるが、県民の願いとしてはバス以外の公共輸送機関の敷設。しかし出来上がったものは那覇市内を一巡する殆ど観光客向けのモノレールであって、戦前の一時期、那覇から嘉手納まで通じていた軽便鉄道のような都市間の長距離輸送機関とは全くかけ離れたものであったが、それでも地上を走る電車が出来たことは県民の気持ちを痛く慰めるものとなった。何故なら、それまで一都一道ニ府五十六県の中に於いて、鉄道が無かったのは唯一沖縄県だったのだからである。
牧志から首里までの乗車代290円。又、空港から牧志までは290円。3回以上乗車しないと1日券600円の元は取れない。今回首里駅まで乗ったので、ほぼツーペイだ。首里城自体は丘の上にあり、「ゆいレール」もどんどん丘の中腹めざし上がって行く。と同時に那覇の街が下に見えだし、市内の広がりが手に取るように見えてくる。白いコンクリートを基調とした街。木造家屋は殆ど見当たらず、ここが異国ではないにしても、内地の地方の県庁所在地の都市と景観とは全く異にするどこか外国へ来たような町並みでもある。
さて、終点首里駅で降り、だらだら坂を更に上っていくと、最初に出迎えてくれるのが「守禮の門」。戦前の国宝も沖縄戦の艦砲射撃に跡形もなくなり、今は再建されたものが建っているが、そのたおやかな朱塗りの門は、内地の城門、武者門、長屋門等とは全く違った文化的な香のするものだった。
「ゆいレール」については、沖縄在住の県民も余り乗ったこともなく、知らない人もいるが、これは沖縄から古くある助け合いの気持ち「ゆい」から来ている言葉であり、漢字で書くと「結い」。団結、結合のことであり、このモノレールが出来る以前のポピュラーな言葉としては「ゆいまーる」があり、云わば「助け合い運動」のことだ。以前この「ゆいまーる」がタイを旅行した時、同じ意味合いで使用されていたのを見た時には、感動した。
こうして沖縄に戦後初めて出来た鉄道が「ゆいレール」であるが、元々沖縄は車社会。どこへ行くにも車で用が足せるが、県民の願いとしてはバス以外の公共輸送機関の敷設。しかし出来上がったものは那覇市内を一巡する殆ど観光客向けのモノレールであって、戦前の一時期、那覇から嘉手納まで通じていた軽便鉄道のような都市間の長距離輸送機関とは全くかけ離れたものであったが、それでも地上を走る電車が出来たことは県民の気持ちを痛く慰めるものとなった。何故なら、それまで一都一道ニ府五十六県の中に於いて、鉄道が無かったのは唯一沖縄県だったのだからである。
牧志から首里までの乗車代290円。又、空港から牧志までは290円。3回以上乗車しないと1日券600円の元は取れない。今回首里駅まで乗ったので、ほぼツーペイだ。首里城自体は丘の上にあり、「ゆいレール」もどんどん丘の中腹めざし上がって行く。と同時に那覇の街が下に見えだし、市内の広がりが手に取るように見えてくる。白いコンクリートを基調とした街。木造家屋は殆ど見当たらず、ここが異国ではないにしても、内地の地方の県庁所在地の都市と景観とは全く異にするどこか外国へ来たような町並みでもある。
さて、終点首里駅で降り、だらだら坂を更に上っていくと、最初に出迎えてくれるのが「守禮の門」。戦前の国宝も沖縄戦の艦砲射撃に跡形もなくなり、今は再建されたものが建っているが、そのたおやかな朱塗りの門は、内地の城門、武者門、長屋門等とは全く違った文化的な香のするものだった。
ああ、正面に守禮の門が見える。

中国・明、清からの使節を迎えた「守禮の門」。

嘗ての首里王国があった場所に建っている。

沖縄は大中国に飲みこまれないよう、最大限の努力をしていた。

この門の前で記念写真を取り、場内に入る。
