龍門石窟東岸の端の方には岩床がむき出しになっている箇所がある。
こうしてみると如何にも硬そうな岩だ。
前方に西岸に渡る橋がある。橋を渡って西岸へ行こう。
この橋は新潟万代橋よりも長いかも知れない。
橋の上から眺める伊河。
石仏の下で韓国人留学生と待ち合わせをし、ツーショットの写真をお願いし、そぞろ歩きに橋を渡り西岸に出る。橋の手前に岩肌のむき出した場所があり、石英の岩床が波を打って地表にむき出している。確かに固い岩石だ。この岩肌に穴を穿ち、又仏像を作ると言うのは並大抵のことではないことが良く分かる。
先年見てきた雲崗の石窟は大きな洞窟の中にこれまた大きな石仏が彫像されていたが、岩は砂が固まったようなザラザラした感じの砂岩で、比較的掘削しやすように思えたが、それに比べたら、ここ龍門の岩の固さは比較にもならないだろう。北魏の遷都と共に雲崗からこの地に引き連れられてきた何百人か何千人かの石工は、ここの岩のハードさに、辛苦したに違いない。そう言えば、中国語で「ご苦労さん」は「シンクーラ」と言うが、多分「辛苦了」と書くのだろう。彼等石工にとっては全くご苦労様なことであった。
伊河の橋を渡る。橋の名前は知らないが、実に大きな川だ。洛陽には2本の大きな川が流れていて、市の直ぐ近くを流れているのが「洛河」。それと市から少し離れたここを流れているのが「伊河」。2本の川ともこの先数十キロの地点で黄河に注がれるが、大河黄河の支流とは言え、この2本の川ともに大河が。「伊河」は「洛河」よりも小さな川であるが、それでも日本最大の信濃川程の川幅を持っていて、今渡るこの石橋も、建設当時日本一の長さを誇った新潟市内の万代橋よりも長いかも知れない。
水嵩の少ない川の流れを見て、今中国は乾期開けなのか、それとも上流で多量の水を取水しているせいなのか、理由は分からないが、所々表土を見せている中洲など見ていると、水量が少ないのはやや慢性的とも思えた。しかし雨季になって、大雨が続き、この川幅一杯に滔々と流れる奔流を想像すると、その大河の前に立ち並ぶ巨大な石仏を想い、雄大な中国の歴史パノラマが想像されるのだった。
先年見てきた雲崗の石窟は大きな洞窟の中にこれまた大きな石仏が彫像されていたが、岩は砂が固まったようなザラザラした感じの砂岩で、比較的掘削しやすように思えたが、それに比べたら、ここ龍門の岩の固さは比較にもならないだろう。北魏の遷都と共に雲崗からこの地に引き連れられてきた何百人か何千人かの石工は、ここの岩のハードさに、辛苦したに違いない。そう言えば、中国語で「ご苦労さん」は「シンクーラ」と言うが、多分「辛苦了」と書くのだろう。彼等石工にとっては全くご苦労様なことであった。
伊河の橋を渡る。橋の名前は知らないが、実に大きな川だ。洛陽には2本の大きな川が流れていて、市の直ぐ近くを流れているのが「洛河」。それと市から少し離れたここを流れているのが「伊河」。2本の川ともこの先数十キロの地点で黄河に注がれるが、大河黄河の支流とは言え、この2本の川ともに大河が。「伊河」は「洛河」よりも小さな川であるが、それでも日本最大の信濃川程の川幅を持っていて、今渡るこの石橋も、建設当時日本一の長さを誇った新潟市内の万代橋よりも長いかも知れない。
水嵩の少ない川の流れを見て、今中国は乾期開けなのか、それとも上流で多量の水を取水しているせいなのか、理由は分からないが、所々表土を見せている中洲など見ていると、水量が少ないのはやや慢性的とも思えた。しかし雨季になって、大雨が続き、この川幅一杯に滔々と流れる奔流を想像すると、その大河の前に立ち並ぶ巨大な石仏を想い、雄大な中国の歴史パノラマが想像されるのだった。