ちゃおチャオブログ

日々の連続

中国・歴史の旅(90)開封歴史博物館。

この博物館の入口には各国語で入館案内が出ているが、日本語案内が韓国語の後にあるのは面白くない。
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ああ、そう言えば、ここは北宋の国都、「東京」だったのだ。
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当時の宋、遼、西夏、の関係図。今の北京の辺りが南京となっている。
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ああ、貴石でできた松柏図。見事なものだ。
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ああ、王安石はこの町に住んでいたのか・・
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王安石の見事な拓本だ。
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3000有余年の歴史を持つ中国の中でも、取り分け黄河流域、ここ開封とかその上流の洛陽などは最も古くから開けた土地で、文明も発達していた。先年、このずっと下流にある山東省の済南を訪問した際、街の直ぐ北側を流れている大黄河を眺めたが、有史以来、この大河の治水事業が時の為政者の最大眼目となっていた。

治水の神様「禹王」は黄河流域のあちこちに足跡を残し、済南黄河でも「禹王」を称える碑文を幾つか見たが、この地にも「禹王」に関係する事跡が今も「禹王台公園」として残されている。そうした有史以前からの歴史を有するこの町の博物館だから、色々と珍しい陳列品が期待される。

入口の案内板には中国語の他に、英語と韓国語、日本語で表示されているが、中国を旅行していつも思うのは、韓国語案内がどこでも日本語の上位に記載されていることであり、余り面白くない。韓国人観光客の方が日本人よりも多いからなのか、中韓関係が中日よりも良好だからなのか、いずれにしても日本人が下に見られ、低く見られているようで、不愉快である。

中に入ってみると、地方の博物館にしては、文物がかなり揃っている。文化大革命が吹き荒れ、批林批孔で、古いものは何でも悪、打ち毀しの対象になっていた時代もあったが、そうした困難な時代を潜りぬけて、どこかに秘かに避難されていた古い時代の貴重品が展示されている。

「東京夢華」。ああ、そう言えば、この街は以前は汴亰と言われていたが、その後「東京」とも呼ばれていた頃もあったんだ。北宋の首都「東京」。北宋が金に追われ、首都がこの東京から今の杭州南宋「臨安」に移転されるまでの間、この街は当時の世界一の人口を擁する大都会だったんだ。博物館の展示を見ていて、そうしたことなども思い起こされた。
 
 
 
 
ここは「北宋都城東京」と言われていたのか・・。「水琴清明」か・・
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古代の銅鏡が展示されている。規矩鏡の原型などもあるのだろうか・・、
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壺などはいつ頃の作品か・・。新しそうに見えるが・・
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ああ、枕だ! 焼き物の枕! 昔の人はこんな硬い枕で良く寝られたものだ!
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銅銭。宋銭は、いっぱい鎌倉まで運ばれてきていたが・・
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宋代海上交通路線図。東は日本(鎌倉)、西はスペインまで行っていた。
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東アジアの海上路。琉球はあるが、台湾はない。東南アジアの曼谷(バンコク)、仰光(ヤンゴン)、金辺(プノンペン)などの地名も見える。
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