玉佛禅寺から魯迅故居へはタクシーで行く。
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案内されたのは魯迅公園の入り口で、ここは後回しにして故居へ先に行く。
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この辺は中級のアパート群が並んでいる。
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こんな感じのアパート群が続く。
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路地の入口にはいろいろな案内板が掲げられている。
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目安箱のようなものもある。
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半日いても見切れない程の沢山の仏像、書画骨董、仏典等に溢れている玉佛禅寺を足早に回り、今日のメインの目的、魯迅故居へ向かうことにした。場所は虹口区としか分からないので、禅寺の外でタクシーを捕まえ、行ってもらうことにした。運転手自身が故居を知らなかったのか、それとも言葉が充分通じなかったのか、「ここだよ!」と言って下ろされたのは魯迅公園の入り口。
ここは故居とは違うじゃないか!と言いたくても、言葉が通じないので怒りようもない。已む無く通行人とか店先の人に「魯迅故居!」(ルーシェンクウキョ!)と聞き聞き、尋ね当てたが、それは住宅街の通りの奥まった少路の突き当りの場所にあり、道路の掲示板を注意深く確認して歩いて行かないと、見落としてしまいそうな普通の住宅地の中にあった。
今から30年程も前、最初に中国を訪問し、北京にやってきたが、その時もタクシーを捕まえて、北京市内の魯迅故居に案内してもらった。運転手は場所を知ってか、知らずか、あちこちくるくる回って漸く探し当てた故居も、高い壁に囲まれた広大な敷地。門扉も固く閉ざされていて、中に入れない。運転手は当方に済まないと思ったのか、肩車をしてくれて、塀の上から中庭、建物を見ることが出来たが、草茫々の庭に廃屋のような母屋が一つだけポツンと侘しく立っていた。
紅衛兵問題が終焉してまだそれ程時間の経っていない頃、当時の中国は国の立て直しに最優先で、こうした文化財、施設を保護したり、お金を掛けたりする余裕も無く、殆ど野ざらしの状態だったが、それから30年、国は富み、過去のこうした文化面にも目を向ける心の余裕も出てきたのか、この上海の故居にはちゃんとした受付もあり、僅かだが入館料も取って、建物の維持管理に当たっている。
建物は赤レンガ造り4階建ての、多分、昔風のアパートと思われるが、それを魯迅家族が一家で使用していた。80年程前、55歳の若さで亡くなった魯迅が死ぬまでの10年間、終の棲家としてここに住んでいた。1階客間から2階のキチン、その上の書斎や寝室、子供の部屋、等々、亡くなる直前の状態で保存されている。
ここまで訪ねやってくる来館者も殆どいない。受付嬢は一人眠そうにしていたが、お蔭で、誰に邪魔されることもなく、1階から4階までのきしむ階段を上り下りし、80年前、魯迅も同じように板と板が擦れ合ってきしむ音を耳にしながら、この階段を上下したかと思うと、旧に身近な存在に感じた。
紹興の大地主の家に生まれ、何不自由なく幼少時を過ごし、しかし後年、列強に蝕まれる母国中国の惨状を見、思想家、文学者として国民を啓蒙し、鼓舞しようと、それまでの優雅な生活を投げ打ち、苦難の道を選んだのだった。近代中国を代表する文学者として国内外で評価されたが、その終の棲家は大文学者の住まいとしてはややつましいものだった。中国革命、生家の没落等々の混乱期にあっては、成功者といえどもこんなものかも知れない。
写真撮影が禁止されているので、居宅内の写真は取れなかったが、彼が座った椅子、ベッド、水盤、等々、晩年の静かな生活が思い起こされた。ここで家族に見守れ、55歳の生涯を閉じた。波乱の人生の最後は静かなものだった。
ここは故居とは違うじゃないか!と言いたくても、言葉が通じないので怒りようもない。已む無く通行人とか店先の人に「魯迅故居!」(ルーシェンクウキョ!)と聞き聞き、尋ね当てたが、それは住宅街の通りの奥まった少路の突き当りの場所にあり、道路の掲示板を注意深く確認して歩いて行かないと、見落としてしまいそうな普通の住宅地の中にあった。
今から30年程も前、最初に中国を訪問し、北京にやってきたが、その時もタクシーを捕まえて、北京市内の魯迅故居に案内してもらった。運転手は場所を知ってか、知らずか、あちこちくるくる回って漸く探し当てた故居も、高い壁に囲まれた広大な敷地。門扉も固く閉ざされていて、中に入れない。運転手は当方に済まないと思ったのか、肩車をしてくれて、塀の上から中庭、建物を見ることが出来たが、草茫々の庭に廃屋のような母屋が一つだけポツンと侘しく立っていた。
紅衛兵問題が終焉してまだそれ程時間の経っていない頃、当時の中国は国の立て直しに最優先で、こうした文化財、施設を保護したり、お金を掛けたりする余裕も無く、殆ど野ざらしの状態だったが、それから30年、国は富み、過去のこうした文化面にも目を向ける心の余裕も出てきたのか、この上海の故居にはちゃんとした受付もあり、僅かだが入館料も取って、建物の維持管理に当たっている。
建物は赤レンガ造り4階建ての、多分、昔風のアパートと思われるが、それを魯迅家族が一家で使用していた。80年程前、55歳の若さで亡くなった魯迅が死ぬまでの10年間、終の棲家としてここに住んでいた。1階客間から2階のキチン、その上の書斎や寝室、子供の部屋、等々、亡くなる直前の状態で保存されている。
ここまで訪ねやってくる来館者も殆どいない。受付嬢は一人眠そうにしていたが、お蔭で、誰に邪魔されることもなく、1階から4階までのきしむ階段を上り下りし、80年前、魯迅も同じように板と板が擦れ合ってきしむ音を耳にしながら、この階段を上下したかと思うと、旧に身近な存在に感じた。
紹興の大地主の家に生まれ、何不自由なく幼少時を過ごし、しかし後年、列強に蝕まれる母国中国の惨状を見、思想家、文学者として国民を啓蒙し、鼓舞しようと、それまでの優雅な生活を投げ打ち、苦難の道を選んだのだった。近代中国を代表する文学者として国内外で評価されたが、その終の棲家は大文学者の住まいとしてはややつましいものだった。中国革命、生家の没落等々の混乱期にあっては、成功者といえどもこんなものかも知れない。
写真撮影が禁止されているので、居宅内の写真は取れなかったが、彼が座った椅子、ベッド、水盤、等々、晩年の静かな生活が思い起こされた。ここで家族に見守れ、55歳の生涯を閉じた。波乱の人生の最後は静かなものだった。
こういう隣組の組織もまだ健在だ。
![イメージ 7](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/c/commodore/20010102/20010102004540.jpg)
その一角に魯迅故居があった。
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この路地の奥まった所に故居がある。
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館内の写真撮影は禁止されているので、外観しか撮れない。
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煉瓦造り4階建ての中型アパートのような感じの建物だ。
![イメージ 11](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/c/commodore/20010102/20010102004430.jpg)
さてこれから中に入ってみよう。
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