ちゃおチャオブログ

日々の連続

中国・歴史の旅(150)旧日本租界地の街並み。

魯迅故居の近くの街路には、塀にこうした文学的な装飾が施されている。
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両側の装飾で、この通りは文学散策の道となっている。
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裏通りにはどことなく日本的な雰囲気が漂っている。
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こうした古い建物は、ひょっとして日本統治の頃からここにあったかも知れない。
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裏通りなど、どこか日本の街並みを想像させる。
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戦前の上海は実に国際都市で、中国政府の支配を離れ、各列強が分割統治をしている状況だった。最初に進出したのは英国で、長江の支流、黄埔江の川岸に橋頭保を作り、ユダヤ系商人が活発な商業活動を行っていた。幕末の伊藤博文(当時は俊輔)等長州藩藩士数名が当時の国禁を犯しイギリスに渡航したのも、ジャーデンマチソン、シフ、サスーン等の上海に拠点を置くユダヤ商人の助けがあって行われたものだった。彼等の経済力、ネットワークは、国禁を犯すことなど屁の河童で、4-5人の侍をロンドンに送ることなど容易なことだった。

そうして先ず最初に英国が黄埔江に面する一帯を租借し、次に永久租借権の上に租界とし、実質的な植民地にしていった。当時の清朝政府はそれ程弱体化していて、英国の無法な強奪を見ていた西欧列強、フランス、ドイツ、ロシアなどは競って租界地を作って行った。遅れてやって来た日本も又上海の海に面した部分を租借し、今現在も使用されているガーデンブリッジから東の部分を日本租界地としたのだった。

中国革命後、これ等の租界地は全て中国政府に返還され、今は外国勢力は一掃されているが、それでも現在の街並みは当時の支配国の面影を残している。黄埔江沿いの一角は今でも英国風の金融街を留めているし、世界でも有数の銀行HSBC(Hongkong Shanghai Banking Corp.)の本店もこの場所にある。

魯迅故居のある虹口区は戦前の日本租界地で、通りを歩いているとどことなく日本の面影が残っているような感じもする。いや逆に日本と結び付けられそうなそうした戦前の面影を求めて通りを歩いたのかも知れないが。あちこちに見える古いアパートなど、戦前に作られたものかも知れない。マロニエか鈴懸らしき街路樹も世代を越えて戦前からこの通りに、同じように植樹されていたのだろう。丁度5月の大連がアカシアの芳香に満ちるように。歩いていてお腹も空いてきた。どこかで昼食としよう。
 
 
 
 
この辺りの通りなど、日本と間違えそうだ。
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ああ、果物屋もある。南方系の果物が豊富だ。
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店先には熱帯魚なども飼われている。
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さてお腹も空いてきた。どこかで昼飯でも食べよう。
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地下鉄駅前の賑やかな通りに出てきた。どこかに食堂位はあるだろう。
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