ちゃおチャオブログ

日々の連続

ラオス北部紀行(41)ムアンクーン(เมืองคูน)の裸の仏像。

<トンクーンの並木(ต้นคูน)
 
 
 
 
ムアンクーン(เมืองคูน)の町に近づくと、どことなく材木店が目立つようになる。
 
 
 
ああ、そうかこの町では、昔から木材業が発達していたか・・。
 
 
 
クーンの木(ต้นคูน・トンクーン)、日本語ではなんて言う名前の木だろう・・。
 
 
 
町のほぼ真ん中に目指す遺跡はあった。
 
 
 
ああ、人々が熱心に祈りを捧げている。
 
 
 
 
 
ムアンクーン(เมืองคูน)は嘗ての県庁所在地と言っても今はジャール平原の中の一つの地方都市、田舎町に過ぎない。この町の名前、「ムアンクーン」は、「クーンの木」(トンクーン・ต้นคูน)の「町」(ムアン・เมือง)という意味で、今街中には樹木は殆ど生えていないが、今まで回って来たジャールのサイト周辺には、それらしき樹木が密生していた。

町に近づくと、何軒か材木屋、製材屋なども見えてきて、昔は、この「クーン」の木材を利用した製材業が盛んだったのかも知れない。ほぼ町の真ん中辺りに、この廃墟になった寺院があった。寺院自体は廃墟になっているが、この仏像は今でも人々の信仰を集めていて、炎天下の元、裸になった仏像の前に何人かの地元民がお祈りを捧げていた。今祈っている人々、彼等が人種的には、何族に当たるのか分からないが、彼等と、1000年以上前に、この場所にこの仏像を建立した部族とは異なっているだろう。

嘗てのラオス族(全体を総評して)は戦いの強い、強固な民族だった。だから、現在のタイの東北部、イサーン地方の大半は、ラオス族の支配下にあった。イサーン方言がラオス語と殆ど同じなのは、当時の歴史的な流れを知れば理解できる。が、その後ラオスは凋落し、フランス植民地に下る直前までには半ばタイの支配下に置かれていた。部族間の対立、抗争で、国は弱体し、文化、文明は凋落し、荘厳な寺院は打ち捨てられ、誇り高き民種族は歴史から消えて行ってしまった。

裸の仏像が、炎天下で中空を見ている。いや、何も見ていないのかも知れない。丁度、スコータイの郊外、ワットシーチュムで見た裸の仏像と同じだ。これが「無の境地」かも知れない。

ドライバーは、ラオス内戦時、米軍の爆撃により建屋が吹き飛ばされ、寺院は廃墟になり、仏だけが残された、と、悲しげに話す。米軍の行為を非難するようなそぶりは見せていない。米軍の爆撃が、凋落して行く傾斜を更に早めたかも知れないが、それは長い流れの中での一つの波風に過ぎない。更に数百年後には、今まで見てきたジャールのサイトの石棺のように、単なる石の塊になっているかも知れない。栄光の民族がそこに存在し、守り続けなければ、如何なる文明も石槫となってしまう。先刻の石棺を見、今またここで裸の仏像を眺め、そう思った。
 
 
 
 
ラオス人の信仰深さはタイ人以上かも知れない。
 
 
 
Wat Phiavatの裸の仏像。
 
 
 
この仏は、何年間、こうして中空を見続けているのだろう・・。
 
 
 
ワット・ピアワット仏像の前で。
 
 
 
長い歴史を感じさせられた。
 
 
 
1000年、2000年経っても仏の見続ける空は変わらない。