ちゃおチャオブログ

日々の連続

ルソン山紀行(51)ビガン、ブルゴス広場周辺で。

ビガン中央広場に面しては、大聖堂も建っている。
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年代を経た、古いビルなども残されてる。70年前、日本軍駐留の時にもここにあったに違いない。
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ああ、市議会議場もある。
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ブルゴス国立博物館
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残念ながら、今日は閉館だった。
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UNP,University of Northern Philippinesのキャンパスで、熱心に就職活動をしている学生の姿を見て、広場に向かったが、考えてみれば、昨日のこのブログにゴンタさんが、フィリピンに於ける貧富の差をコメントし、大学に行けるのはごく限られた少数の特権階級で、大半の国民は貧しさの中でロクな教育も受けられない、との意見は、全くその通りで、当時、このキャンパスを訪問した小生には、そこまでの考えは至らなかった。現に目の前に繰り広げられている光景を眺め、それが現在のフィリピンの現状かと、表層的な見方しか出来なかった。真の旅行者は、本当は裏面に隠されている真実を見抜き、考察しなければならないのだが・・・。

大学の前は、この町の中心広場、即ち、ブルゴス広場になっている。ブルゴスという人物を当方は知らないが、ガイド等によれば、16世紀後半、即ち、徳川開府の少し前、このビガンを中国人の支配から解放した英雄として尊敬されている。去年、当方がビガンを訪問していた頃は中国の脅威を今ほど感じなかったが、この1年、南沙諸島、フィリピン名スプラトリーへの中国の強圧的な進出は、当事国のフィリピン始め、周辺諸国の脅威になっている。中国の主張としては、これ等南海の諸島は明の時代に中国領だったのだから、中国が支配するのは当然だ、との正当性を論拠にしているが、500年も昔の当時の覇権、ヒエラルキーを持ち出すアナロギーに、アジア中の関係国は驚きを通り越している。その論法で行けば、明の柵封を受けていた沖縄、当時の琉球王国も、中国の領土となってしまう。

ブルゴスがこの町を中国人の支配から解放した当時、マニラは既にスペイン領になっていて、そこにはスペイン太守も駐在していた。16世紀、スペイン・ポルトガルによる世界分割の一環だった。ブルゴスは当時まだ未開の地だったルソン北部に派遣され、平定し、以後約300年の間、この国をスペインの支配下に置いた。このビガンの中央広場も、この町の解放者の名前を取って「ブルゴス」と名付けられている。

このブルゴス広場の周辺には、この町の主要機関が集まっている。米国流に、「Capitol Hill」と名付けられている市議会議場、大聖堂、UNP,ブルゴス国立博物館等々。広場の直ぐ横を先刻の川が流れている。メスチーソ川だ。助左衛門の貿易船も、先刻の川港からここまで遡上してきたのか・・。400年前の川の流れは、今もここにあり、流れ続けている。この町に住む住民は何世代も代わってはいるのだが・・。



南国の木が大きく繁っている。
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この方向に川がある。
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ああ、川が見えて来た。
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ああ、メスチーソ川(Meztiso River)だ。
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呂宋助左衛門の貿易船も、ここまで遡ってきたのだろう・・。
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