ちゃおチャオブログ

日々の連続

8.14.(金・晴れ)五木寛之「余命」。総理表明。

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お盆の中日。1日自宅にいて、ゴロゴロする。お盆の1日、学生の頃は実家に帰り、大体いつもそうしていたか。お盆の間、海へ行ってはダメだとの禁を犯して海へ行ったこともあったが。
一昨日借りて来た五木寛之の「余命」を読む。お盆の間に読むに相応しいか。彼は1932年生まれだから、今年で83歳になる。この本に中には明確には書いてはいないが、彼はもう既に死期を定め、それに向かって進んでいるようだ。西行芭蕉の死に方、或は仏陀の死に方に憧れを抱いているようだ。
高齢になり、痴呆になり、自分の下の世話までできなくなって、幾つまでも生きているのは見苦しいし、社会費用の無駄使いになる。人は自ずから死期を悟り、余計な延命医療は受けるべきでない、との考え。
老人大国、高齢大国になっても、その実態は100歳以上の高齢者の8割が施設で寝た切りの状態で命を長らえている。全く意味の無い延命だ、と主張している。
山さんの母親も亡くなる5年間、全く意思疎通できず、直物人間の状態でベッドに括り付けられ、生き長らえた。そうした延命に如何程の価値があるのか。税金、医療費の大いなる無駄使いだ。
生まれる時は自分の意思では誕生できないが、死ぬ時は、自己の決定権が与えられてほしい。充分生きた人間は、満足して死んでいくべきだ。身寄りもなく、生活保護たらいまわしされている80過ぎの高齢者が、まだ生きたい生きたいとわめき、高額手術を要求している人間の業の深さを描いていた。
五木さんがどんな立派な死に方をしていくのか、見てみたい。蝋燭がそっと、いつの間にか消えてしまったように亡くなって行くに違いない。

夕方6時からの総理表明。内閣府、新聞マスコミ等は総理談話としているが、これは総理の意見表明であり、談話ではなく、表明、と言うべきだ。単なる囲炉裏端の談話などではなく、戦後70年と言う節目に当たる日本国総理としての決意表明、乃至意見表明である。先ず、内閣府から「表明」と発表するようにしなさい。
6時から約20分、その後の汽車質問に20分、合計40分間にわたって、近世日本が歩んで来た道、戦前戦中の困難な時代、或は悲惨な時代を経て、戦後の償いの道、それから将来に向かって進む平和日本の方向性を世界に向かって表明した。
いろいろ枝葉末節、揚げ足取りの批判もあるだろうが、戦後の平和国家としての日本、この先も世界の平和に貢献していくとの決意表明。70年の節目に当たっての素晴らしい内容だった。流石、安倍総理なればの発表だった。
昨日は山口で父安倍晋太郎氏の墓前にお盆の供養をし、今日午後帰京し、閣議での承認を得て、今夕の表明となった。日本人は良き総理に恵まれたものと思った。

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