ちゃおチャオブログ

日々の連続

「サウダーデ」モラエスの愛した町(8)潮音寺のモラエス夫妻墓所。

阿波踊り会館の横にある潮音寺の墓地は平板な感じだった。後で分かったが、この寺は過去何回か、津波、空襲等の被害に遭い、墓地を今の場所に移した、とのこと。
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墓地入口にモラエスの墓の案内板が出ていて、入って直ぐの場所にあった。
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お墓はモラエスを中心として、三人仲良く並んでいた。
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この白大理石はポルトガルから取り寄せたものとのこと。
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右におヨネさん(福本ヨネ)、左にコハルちゃん(齋藤小春)の墓が建っている。
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潮音寺は阿波踊り会館の直ぐ横にあるお寺である。寺と言ってもここには本堂とか庫裡はなく、平板な墓地と墓参りにやって来る檀家の人々の休憩所、会所しかない。木も無ければ庭もない、殺風景な墓所である。先刻瑞巌寺を見て来て、ここ潮音寺もそこと同じように鬱蒼とした古木に囲まれた名刹を想像してやってきたが、拍子抜けした。しかし考えようによっては、飾り気もなにもないこの単調な寺、というか、墓地はモラエスの生き様にぴったりなのかも知れない。

墓地には道順を示す案内板が出ていて、モラエスの墓は直ぐに分かった。入口に近い場所にあり、そこには3基の墓が仲良く並んで立っていた。真ん中をモラエスにして右に先妻おヨネさん、左が姪で後妻の小春ちゃん。三人は一緒の墓所で仲良く並んで眠っている。およねも小春も若くして亡くなり、後に残されたモラエスのみ一人長命を保ったが、今は彼の望み通り、日本の、徳島の地で、二人の妻に左右を守られ、永眠している。

白大理石の墓石は本国ポルトガルから運ばれ、戦後徳島市により建立された。正面にカタカナでウエンセスラウ・モラエス之墓と刻まれ、その右側面には前妻福田ヨネの没年、左側面には後妻の齋藤コハル行年23歳と刻まれている。今や3人は一つの墓に収まって、黄泉の世界に仲良く暮らしているのだ。

大正5年小春が亡くなり、更にその2年後、小春の忘れ形見の長男麻一も母親を追うように亡くなって以降、既に60後半になっていたモラレスは、先刻歩いたモラエス通り、当時の伊賀町の長屋で亡くなるまでの10年近く、異国の地で一人侘しく生を送った。当時、この町に住んでいた外国人は彼を含めて3人だけだったと聞いている。

三人の墓碑銘を読む。おヨネさんとの神戸での幸せな日々、おヨネの面影を慕って徳島に移り住んだモラレス。姪の小春を後妻に娶ったが、それも僅かな期間で先に逝ってしまった。「孤愁」、ポルトガル語で言う「サウダーテ」。実に彼は亡くなるまでの10年、この町で「孤愁」の中に生き続けてきたに違いない。三人の墓に手を合わせ、この墓地を後にした。


< 盆近し 葡人の眠る 墓尋ぬ >

< 人一人 孤愁漂ふ 夏の墓地 >



小春の没年月が彫られている。
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小春の行年、25歳。当時としても短命だった。
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墓の後ろには解説板が立っている。モラエス翁、1854年にリスボンで生まれ、1929年、徳島にて逝去と記されている。
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おヨネさんの解説は、ヨネ25歳、モラレス46歳の時に結婚、1912年(大正元年)38歳で死去、と記されていた。
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コハルは、結核の悪化により、25歳で亡くなった。この解説によれば、墓は三人が一緒ではなく、モラエスは小春との一緒の墓を望んでいたようだ・・
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