ちゃおチャオブログ

日々の連続

「サウダーデ」モラエスの愛した町(9)そごうデパート内「モラエス展示室」へ。

潮音寺(阿波踊り会館)から徳島駅までのほぼ中間地点に新町川が流れている。
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この川の河口に徳島港があり、モラエスも神戸との往復で、この新町川を良く通った。昔も今も、徳島経済の中心地で、阿波銀行本店なども集まっている。
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この大通りの正面、突当りに徳島駅がある。正面の駅ビルの5階で、昨日お昼のラーメンを食べた。
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駅の横には高層ホテル・クレメントが経っている。10年前にあったのか・・
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ホテルクレメントに関しては定かな記憶はないが、この駅前広場の形状、バス乗り場等は10年前と変わらない。
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モラエス、おヨネ、小春、三人のお墓にお参りし、潮音寺を後にする。これからまだ時間が間に合えば、駅前のそごうデパートの中にあるモラエス展示室に寄って見よう。眉山山頂にあったモラエス記念館は、建て替えか何かの都合で、現在は閉鎖中。そこに展示してあった遺品の幾つかが、この駅前デパートの一角を借りて、「モラエス・コーナー」に展示されている。どの道夕食を食べに駅前まで出る積りだった。時間が間に合えば、デパートに寄って見よう。

阿波踊り会館」から徳島駅までは両側6車線の大きな通りが真っ直ぐ伸びていて、歩道も広々と取ってある。その途中には吉野川の支流「新町川」が流れていて、幅広の新町橋が架かっている。両岸の河岸は良く整備された遊歩道になっていて、公園風の樹木も植えられている。モラエスが生きた明治末から大正時代、徳島の町の中心はこの辺りだった。大阪、神戸、和歌山等からやって来た客船、貨物船は、この少し先の河口で旅客を下ろしていたが、船によってはこの新町川を遡行し、この橋の近くまでやってきた。

街の規模、川の大きさは遥かに違うが、上海の黄浦江に似ていなくもない。丁度黄浦江が大河揚子江の支流であるように。徳島も上海のような大都市だったら、この両側の河岸も人で溢れているだろうが、今は人っ子一人いない静けさだ。

この新町からは直ぐ先に徳島駅周辺の高層ビルが見えてくる。歩いて5分も掛からない。徳島駅前の広々した感じは10年前と変わらない。当時駅に併設された高層ホテル・クレメントが既にあったのかどうか定かな記憶はないが、その時泊まったのは駅の向いにあるワシントンだ。ホテルは今でも同じ場所に建っていた。

そごうは今でも駅前広場の一角を占めている。10年前の当時は、デパート経営が左前で、権勢を誇った水島会長も一回りも二回りも人間が小さくなって見えたが、そのそごうも結局は経営破綻し、その水島氏も100歳近くまで生きて、先年亡くなったが、各地のそごうが閉店、撤退される中で、この徳島駅前のそごうは命脈を保っている。どころか、10年前のややくたびれた感じから今は蘇った感じに輝いて見えた。それは何も夕焼けの残光で輝いて見えた訳ではなかった。

外観同様、店内も一流の内装、品揃えで、銀座三越に変わらない。1階には名だたるコスメ店、一流ブランド品、アパレル・ファッション店が綺羅びやかに並び、足を踏み入れるのに躊躇するが、「モラエス・コーナー」はこの奥にある。

デパートの営業時間は7時まででまだ時間は十分あるが、この「モラエス・コーナー」は5時で終了。エリアには既にロープが張られていて、中には入れない。ロープの外から展示品を眺める。・・そうそう、髭もじゃの顔。見覚えのある顔だ。モラエスさん、やっと会えましたね。


< 新町川 たゆとう流れ 夏来る >

< 髭面に 愁い残すや 老いの顔 >



駅を背にして、右側にそごうデパートがある。遠方の山は眉山
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そごうデパート1階にはモラエス・コーナーが作られていた。
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眉山山頂にあったモラエス記念館の中にあった遺品の一部をここで展示している。その他の遺品は、徳島大学構内の資料館に移された。
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ああ、モラエスさんだ。奥さん二人に先立たれ、異国の地に一人残され、どれ程寂しい老後を送っていたのか・・。
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モラエスの遺言。カタカナで書いてある。「私はもしも死にましたら、私の身体を徳島で焼いて下さい」。
徳島をこよなく愛したモラエスらしい遺言だ。
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