今は港は幅広の道路に遮られ、歩道橋を渡って行かなければならない。
高速道路の向こう側に港が見える。
港を跨ぐ高速道路も全て崩れ落ちた。
明治の頃、この神戸居留地に何カ国の領事館が設置されていたのかは知らないが、当時の外交関係から言っても、10カ国前後、多くても20カ国は越えていなかっただろう。現在の居留地には、大きな海運会社のビルとか、大丸等のデパートブランドショップ店が占めていて、昔のポルトガル領事館がどの辺りにあったのかは分からず仕舞だった。いずれにしても当時の煉瓦道やガス灯は取り払われているので、跡地が分かったとしても、当時を偲ぶよすがもないだろう。
その頃は、この居留地のすぐ前は船着き場で、海が間近に迫っていただろうが、今は海との間に8車線の幅広の道路が横切ってて、海岸に出るにしても歩道橋を上り下りして行かなければならない。明治は遠くなりにけり、又、海も遠くになりにけり。だ。
その道路を渡った直ぐの場所が「メリケン波止場」。この波止場が出来たのは明治2年の事だが、当時居留地の一番海側にアメリカ領事館があり、そこから名前を取って、「アメリカン」→「メリケン」と呼ばれるようになった。同じ名前の「メリケン波止場」は横浜港にもあるが、それは、山下公園の直ぐ傍にある「大桟橋」の別称となっている。本家争いから言えば、神戸の方が先だった。
平成7年(1985年)、神戸を襲った阪神淡路大震災は、この神戸港にも甚大な被害を齎し、岩壁は崩れ、一部水没して波に洗われている映像が毎日のようにテレビに映っていた。いや、この波止場に限らず、神戸の街全体が灰燼に帰したかの様相で、今港越しに見える高速道路なども橋桁から崩れ落ち、無残な姿を晒していた。今、港を見ても、又、港越しに見える市街地を見ても、30年前、この町が死者6000人を越えるような大災害に見舞われたなど、当時を知る人で無ければ、到底想像も出来ない、見事な復興ぶりを見せている。
< 震災の 痕も留めぬ 海静か >
その頃は、この居留地のすぐ前は船着き場で、海が間近に迫っていただろうが、今は海との間に8車線の幅広の道路が横切ってて、海岸に出るにしても歩道橋を上り下りして行かなければならない。明治は遠くなりにけり、又、海も遠くになりにけり。だ。
その道路を渡った直ぐの場所が「メリケン波止場」。この波止場が出来たのは明治2年の事だが、当時居留地の一番海側にアメリカ領事館があり、そこから名前を取って、「アメリカン」→「メリケン」と呼ばれるようになった。同じ名前の「メリケン波止場」は横浜港にもあるが、それは、山下公園の直ぐ傍にある「大桟橋」の別称となっている。本家争いから言えば、神戸の方が先だった。
平成7年(1985年)、神戸を襲った阪神淡路大震災は、この神戸港にも甚大な被害を齎し、岩壁は崩れ、一部水没して波に洗われている映像が毎日のようにテレビに映っていた。いや、この波止場に限らず、神戸の街全体が灰燼に帰したかの様相で、今港越しに見える高速道路なども橋桁から崩れ落ち、無残な姿を晒していた。今、港を見ても、又、港越しに見える市街地を見ても、30年前、この町が死者6000人を越えるような大災害に見舞われたなど、当時を知る人で無ければ、到底想像も出来ない、見事な復興ぶりを見せている。
< 震災の 痕も留めぬ 海静か >