遺体焼き場の近くには、死を待つアパートが建っている。インド全国から集まってきていると言う。
火葬場を出て、今度は日本食堂を訪ねることにした。
再び路地を歩き、聞き聞き向かう。ここは路地の商店街。
住宅地の中には学校もあった。皆身綺麗だ。
火葬場での雲助のような連中に取り囲まれ、又か! と随分嫌な思いをしたが、連中は我々外国人がやって来るのを待ち構えていて、値踏みし、たかるのを生業としているのだ。カーストで言うとどのクラスに属しているかは知らないが、多分最下層のスードラか、更にその下の不可触賤民に違いない。明らかにたかり集団だが、一般のインド人はそれが分かっていても、行政も警察も知らんぷりだ。それが彼等の生業、生活の糧を得るための必要悪とみなし、黙認しているのだろう。
そうした彼等も選択眼というか、選球眼を持っていて、一概に欧州系の白人は手ごわい。特に英仏オランダドイツなど。それに反して東洋系は緩い。特に日本人は良いカモだ。高めを吹っかければ、大体その半分位はせしめることができるだろう。当方、そうした手に乗らず、又他の日本人客への悪い前例を作るのを避ける為、頑強に抵抗したが、何人かの入れ替わり立ち代わりの要求、特に、貧しい人々への慈善行為などと透かされたりして、根負けではないが、惑わしいので、500ルピー、約1000円払って、その場を脱した。最初の5000ルピーの要求からしたら、10分の一の「税金」で済んだことになる。
そうして彼等の虎口を脱し、次にこの町で日本人の女性が経営して日本食食堂へ行くことにした。以前テレビなどで放映されていて、ゲストハウスも営業していると紹介されていたが、予約の方法や、場所も分からず、泊まることが出来なかったが、昼飯だけは食べに行ってやろう。日本人客が顔を出せば、彼女への多少の励みにはなるだろう。
再び迷路のような街中の路地を歩き、町の人に聞き聞き、探し当てる。旧市街は案外狭く、何回か迷って歩いている内に、大体の方向感覚もつかめるようになってきた。それに日本食堂は、この町では珍しい存在で、この町の住民なら、大体は知っていた。大通りを少し入った路地の中程にそのゲストハウスはあり、「Fuji Home」の看板が出ていた。中に入って見ると、そこは長屋風のゲストハウスで、入口近くに食堂はあるようだったが、今は休憩時間のようだ。
営業はしていないのか、と聞くと、中にいたインド人ボーイがもう一軒、この奥の方に「Megu」という日本食堂があるという。そこなら営業している筈だと。この付近の路地は、鋭角にコの字に90度曲がっている。見様によっては昔の城下町の防衛上の観点からの曲がり路地に発想は似ているが、そのコの角を曲がった直ぐの場所にMeguの看板が見えた。住宅地の中にある1軒で、通りを歩いていて偶然に見つけるという場所ではなく、矢張り、聞き聞き尋ね歩かなければ分からない場所だった。ただ、小さな町だから、一度来れば迷う事はない。
「Cafe」とあるように、本当に喫茶店のような感じの食堂で、4つ5つのテーブル席があって、20人も入れば満員になりそうだ。入って直ぐの場所にレジとその奥にキチンがあり、中を覗くと日本人女性だ。ああ、彼女が「メグ」さんか。「こんにちわ」と日本語で挨拶すると、彼女も「こんにちわ」と返してくる。何が美味しくて、得意な料理かも分からないので、適当に彼女に選んでもらう。出て来たものはご飯の横にタンドリーチキンを揚げた唐揚げのようなもので、何か日本の家庭料理のような感じのものだ。だが、インドの地鶏。柔らかくコクがあり、成程これがタンドリー、と言った味わいだった。これで200ルピー、400円程度だから、日本と比べたら桁違いに安い。
聞くと、彼女は関西出身で、インド人の夫とここで店を開いてもう5-6年になると言う。営業は順調のようだ。食事をしている間にも他の日本人アベックがやってきて、いろいろ品定めをしている。又、更に5-6人のグループがやってきて、我が物顔、とは言わないまでも、急に賑やかになる。メグさんもキチンの中を出たり入ったりして、忙しそうに立ち働いている。店も混んで来たので、長居は無用。「ご馳走様」と言って店を出る。ご主人の母国とは言え、異国の地にしっかり根を下ろし、楽し気に活躍している若い日本の女性。頑張って下さい!
末は大臣、大将か・・。
路地を少し入った場所にゲストハウス「Fuji Home」がある。以前、テレビで紹介されていたホテルとは違うみたいだが・・。
Fuji Home の直ぐ近くには、日本人の若い女性が経営する「Megu Cafe」があった。
和風のタンドリーチキンの唐揚げ。200ルピー、約400円。