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日々の連続

村上春樹氏「職業としての小説家」を読む。ー彼の目指すところ。

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村上春樹氏の「職業としての小説家」を読むきっかけになったのは、先日図書館へ行き、名前別に並んでいる彼のコーナーへ行った際に、探していた「騎士団長殺し」は無く、他のいくつかの著作物と一緒にこの本が書架に置いてあって、約300頁と言う手ごろな厚さであり、且つ、毎年ノーベル賞候補に挙がり、且つその都度フアンを落胆させてきた、というニュース性もあり、過去「1Q84」、「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」、途中までだったが「羊を巡る物語」の大冊を読んだこともあり、果たして彼が小説家としてどのような視点から、乃至考えで著作に当たっているかへの興味もあった。

読んでいて最初に感じたのは、このエッセー風の書き物に際し、自分は彼の実像を知る訳ではないが、殆どと言ってよいか、或いは全く虚飾はなく、ありのままの自己をさらけ出しているという印象だった。小説とは違って、彼の人間性を知るうえで、興味深い内容であった。中で知ることになるのは、彼は自身でも言っているが、小説家としての天賦の才がある訳ではなく、小説家としての第一歩を踏み出し、その後30数年、今猶小説家としての職業をまっとうできているのは、偶然の支配される賜物であり、即ち幸運の連続で今日までやってこれた、ということだった。日本国内では作家の登竜門と言われる芥川賞直木賞、両賞の受賞はないものの、外国での数々の著名文学賞を総なめ、それはノーベル文学賞以外のあらゆる文学賞と言ってもよい程だが、それ程高く評価されている作家にしては謙虚な物言いで、好感の持てるものだったが、それは又彼の心の真実の吐露であったかも知れない。

彼は徹底している。文壇とは全く交わりもなく、連載小説は断り、講演会、サイン会も極力断っている。短編小説は時々書くが、彼の主目的としているところは、数年おきに発表される長編小説である。そうした付き合いを回避している理由は、長編小説を書くために時間を有効に使い、精神を集中したいためだとしている。この「職業としての小説家」の出版は1年半程前の2015年9月であるが、それは丁度前作「色彩を持たない多崎つくる」と先月出版された「騎士団長殺し」のほぼ中間ほどに当たる。彼はこの書の中で、従来の一人称の書き方から「1Q84」を境にする辺りから、三人称の書き方に変えてきていて、そうした三人称の使用法は作品に幅を持たせ、一人称の窮屈さから解放させる効果があり、更に作品に広がりを持たせるものがあった、としている。

長編小説、「1Q84」で言えば、全3巻でそれぞれ500頁以上の合計で1500頁強、「多崎つくる」も同様の全3巻で、これだけのボリュームだと読むほうも大変だが、それ以上に、一字一句を創り出す作家村上春樹の努力たるや、大変なものがあるだろう。だから彼がこの一点に集中し、極力社会的付き合いを遠ざけている理由も理解できる。ただ彼はこの点についてさらりと言いのけ、毎日10頁をコンスタントに書き続け、約4年、それが継続できた後に長編が完成するのであって、その為にはフィジカル、肉体的強靭さを必要とする、と言っている。毎日コツコツコツコツ書き溜めていく作業はまさしくレンガ職人のようなもので、その作業は細心な注意を払って作り上げることであり、正に小説家は職業人と同じだとしている。しかしここで自分は少し不思議に思ったのは、文中にコツコツの表現は確か前後3回は出ていたが、そこで何故石工、Masonryではなく、レンガ職人としたかと。彼は米国に長らく生活し、殊、ボストンにも長期滞在していたと述べているにも拘わらず、そうした精巧な且つ年季のいる作業はレンガ職人ではなく、Masonryがぴったりの表現と思ったのだが、彼はそうは言っていない。彼が過去翻訳した多数の英文著作物の中にも当然この職業人乃至集団があった筈だが、彼は全く触れていなかった。

それは兎も角、彼はそうして4-5年かけて作り上げた長編小説を何回も読み直し、手を加え、書き直し、時には章全体を入れ替えたり削除したりして、最後は妻の意見を聞き、最後に出版社の編集者に渡しているとのことである。一丁上がり、の一気呵成の出たとこ勝負ではなく、綿密にめり込まれた、全くの職人技である。成程、小説家としての職業人なのだ。

昨日の朝日朝刊に新潮社の大きな広告が出ていた。「騎士団長殺し」の読者からの反響だが、24歳女性は「読み始めたら、止まらず週末一気に読了。騎士団長ロスになりそう」、38歳女性「希望に溢れた暖かいエンデイング」、47歳女性「1Q84のドキドキが蘇った」、54歳男性「主人公に自分が重なり、胸が熱くなった」、63歳男性「骨太でじつに深い大人の小説だ」、等々、感動と称賛に溢れた読者評だが、本人自身も、これは「職業としての小説家」の最後にも書いてあった言葉だが「物語は人に力を与える。僕はそう信じています。」との言葉は、ストーリーテラーとしての面目躍如である。

同じ朝刊に70歳北方謙三「人生の贈り物」が出ていたが、17年間にわたって書き続けた「大水滸伝」シリーズは全51巻で原稿用紙2万5500枚、累計発行部数が1000万部を超えた、と出ていたが、村上の言うリピーター、特にこうしたシリーズ物は、最初の1-2巻が面白ければ、読者は連続シリーズ物は、次々に買っていく。1000万部とは言え、50で割れば、実質20万人の固定フアンが付いていれば、それも可能になるだろう。村上に言わせれば、人口の5%、約600万人が読書人口で、その一定数を固定読者として繋ぎ止めることが出来れば、このビジネス、即ち、職業人としての小説家も成り立つという。そして固定読者は3年ー5年置きの次の出版を待ちわびている。新聞広告に掲載されている何人かの読者もそうした内の一人だろう。彼には既に数十万、数百万単位の固定読者が付いていることだろう。そうして、人々に生きる希望と勇気、或いは夢を与えるかも知れない。誇るべき立派な職業人である。それは又、たゆまざる努力の賜物ではあるのだが。


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