ちゃおチャオブログ

日々の連続

薩摩・大隅の旅(25)お台場公園へ。

大隅の海岸線が続く。
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車も少なく、ドライブ日和だ。遠方に開門も見える。
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ああ。標識が出ている。ここから宗谷岬まで2700キロ。鳥さんはこの道をひたすら歩いていくのだ・・
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錦江湾も波静かだ。
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ああ、対岸の指宿が見えてきた。
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幕末、江戸湾東京湾)にお台場があったように、ここ錦江湾にも同じような砲台があった。外国船打ち払いの目的もあったが、江戸や鹿児島の城下を敵の攻撃から守る、防衛の目的もあった。長門の馬関海峡(関門)高台にも同じような砲台が作られていて、期せずしてこの3国、幕府と薩摩長州はそれぞれに反射炉を作り、自前の砲台も作っていた。江戸のお台場は幸いにも外国船による攻撃には晒されなかったが、長門もここ薩摩も外国船の砲撃によりあっけなく破壊された。

佐多岬から50キロ程戻った辺りが錦江湾が対岸の薩摩半島との間が一番狭まっていて、湾の入り口を塞ぐような形になっているが、そこに砲台が作られている。今は小奇麗なお台場公園になっているが、ここに英明な藩主斉彬公の発案でお台場が作られ、彼自身もこの辺鄙な地まで視察に来ていたのだ。彼が当時使用した手水石など、歴史遺物が残されていたり、大砲なども置いてあるが、この場所は嘗て薩英戦争時に英国軍により破壊され一時的に占領もされたのだが、後からどこかからか運ばれてきたものだろう。

ここからは対岸の指宿が目と鼻の先であり、薩摩半島先端にそびえる開聞岳が大きく姿を見せている。海上から眺めると圧倒的だ。以前屋久島へ行き、帰りに高速フェリーで帰ってきたが、その時に眺めたこの山の美形、一点の瑕疵も無い均整の取れた山が海上に浮かんでいる。戦時中鹿屋、知覧から飛び立った陸海軍飛行隊は、南方洋上での戦いの後、基地に帰投したが、この山を目標に帰ってきたと言われる。それ程、どこから見ても高くて、目立つ山だ。暫くその美形に見とれた。



ん、山が見える。開聞岳だ。
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素晴らしい勇姿だ。
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湾の一番狭まった場所に公園がある。
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ああ、砲台跡。お台場公園だ。
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当時のお台場の様子が良く保存されている。
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ああ、これが斉彬公使用の手水鉢か・・。
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