月寒資料館2階に通じる階段。戦前からのものだ。
2階には樋口中将関連の多くの資料が展示されている。
札幌師団当時の集合写真だ。この場所は今は月寒小学校になっている。
月寒資料館閉館までに残す処30分程しかなかったが、館長は快く迎い入れてくれて、自ら館内を案内してくれた。元高校の先生なのか、どこか大学の学者だったのか、歴史に詳しく説明も要領を得ている。2階に主たる展示物があり、我々を2階に案内してくれた。戦前から使用されているこの建物。北洋材の分厚い木材も今も使われている。この階段を樋口中将やその家族、武官や兵隊さんが上り下りしたのか・・。足が悪いので、一歩一歩上って行くが、きしむ階段に昔を思った。
2階には樋口中将関連の遺品とか写真などを中心に、当時使用されていた軍服、軍刀、作戦図などが展示されている。中で目を惹いたのは書で、中将の、「徳不孤、季一郎」の肉太の文字が圧倒的だった。今は月寒小学校になっている旧札幌連隊集合写真で、数百人集合している写真の中に樋口季一郎中将を見つけるのは困難だが、彼は連隊長よりも上の北部方面軍の司令官で、多分この写真の中にはいないだろう。
樋口中将を有名ならしめたのはキスカの無傷の撤収作戦もさることながら、その敢闘精神で、大本営がポツダム宣言を受託した後でも武力を行使してきたソ連軍に対し、確固たる意志で徹底抗戦したことであり、南樺太に於ける対ソ戦で有名を馳せた。敗戦後、ソ連は樋口を戦犯にすべく強硬に主張し、引き渡しを求めたが、連合軍側によって阻止され、戦犯として巣鴨に送られることも無く、戦後は穏やかな老後を過ごし、年譜によれば昭和45年(1970年)、齢82歳で亡くなった。立派な陸軍軍人の一人であり、満州派遣時代にドイツから避難してきたユダヤ人多数を救済した善行でイスラエルの「ゴールデンブック」にその名前が刻まれている。
閉館時間も迫っており、本当はもっと色々なことを館長から聞きたかったのだが、事務室には他の事務員もいて、閉館を遅らせることはできない。温厚な館長にお礼を言って館を後にした。レンタカーも返却しなければならないし、一旦はホテルに戻ることにした。
レオナール藤田の戦争画なども掛かっていた。
樋口中将の書だ。
肉太の文字で「徳不孤 季一郎」の書もあった。