ちゃおチャオブログ

日々の連続

ルソン山紀行(26)キアンガン小中学校(Kiangan Central School)。

バギオのバス発着センターにはキアンガン行のバスもあるが、1日1本、夜行バスとなっている。
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キアンガン村にある小中学校。
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この学校も日本の援助により建てられたのかも知れない。
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運動場。嘗て山下軍団はここに駐屯していたのか・・
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山下大将はこの小屋で、米軍攻撃軍大佐により捕虜となった。
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部屋はカギが掛かっていて、中には入れない。
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敗残兵の山下軍団がこの山の中の集落に辿り着いた時、まだ何人の兵隊が生き残り、猶また何人の兵隊に戦闘能力が残されていたかは、当方、歴史家でもないし戦史家でもないから知らない。いずれにしても継戦能力は殆どゼロに近く、山中を彷徨うゲリラどころか、幽霊軍団のような状況ではなかったかと想像する。この敗走軍について唯一知っていたのは、ルソンの山中に逃げ込み、キアンガンという所に落ち延びた、ということ位だった。ここへ来る前にバギオのバス発着センターで、キアンガン行のマイクロバスがあることを知って意外な感がしたが、それは、キアンガンが単なる山中の地名ではなく、バスの終点ともなっている然るべき町なのだ、という認識だった。

処が、キアンガン行は1日に1本、夜行バスがある切で、それに乗る為、もう1日をバギオで過ごすのは無駄であり、取り敢えずは今日ラガウェイまで来た。来て正解だった。キアンガンがラガウエイから案外近い距離にあるとは、ここへ来るまでは分からなかった。それでバイクタクシーを借り上げて、ここキアンガンまでやって来た次第だが、この集落の光景、周囲の山並み、谷底の川の流れ、等々を見て、ここは直感的に、祖谷渓谷であり、大歩危小歩危大豊町に違いない、ということだった。

平家の落人。山下将軍が自身をそう擬していたとは思えないが、旧軍の教育思想、訓練の中に、捕虜になることは最大の恥であり、小野田少尉に見られるように、「残置諜報」の発想、即ち、その土地に身を潜め、攪乱戦術を取ること。そんな発想が彼及び幕僚の中にあったのかも知れない。こんな山の中でゲリラ戦法を取る。それが終戦詔勅から五日もたってからの山からの下山、降伏になったのかも知れない。

平和記念公園を見て、その小学校へ行った。山下軍団は一応は、ここキアンガン小学校を駐屯地としたようだ。しかし、米軍の爆撃、砲撃等もあり、その実態はどんなだったかは知らない。実際は裏山の林の中に逃げ込み、米兵に追われ、追いかけ回されていたのではないかと思う。終戦詔勅と同時に武装解除せず、更に5日間も山中を逃げ回っていた背景は何だったのか・・。そこには、緒戦のシンガポールで、パーシバルと対決した輝きは、どこにもなかった。いずれにしてもこの小学校で、彼は捕虜となり、マニラ軍事法廷に移送され、その後、絞首刑となったのだ。



捕虜になった経緯がこのプレートに書かれている。日本語はない。
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学校で遊ぶ子供達。
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今、教室では授業が行われている。
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教室をちょっと覗いて見る。何の授業だろう・・。
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小学校の前にあるキアンガン村の集落。
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貧しそうな集落だ。
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