ちゃおチャオブログ

日々の連続

モラエスの故地を訪ねて(78)竹簡の部屋。

玉器の部屋の次は竹簡になる。
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古代文字で書かれていて、良く理解できない。
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これ等はすべて複製だが、原型がどかかから出土しているのだろう。
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象形文字のような綺麗な文字だが、如何せん、読むことができない。
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何か、判じ物を見ているようだ・・
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紙の製法が発見される以前、中国の人々は、竹を薄く削いでヘラ状の札にしたものに文字を書いていた。それは竹簡と呼ばれている。日本でも飛鳥朝時代の遺跡から、時々、木に文字が書かれたものが発掘されて、新聞をにぎわしているが、それは木の札に書かれたものだから木簡と呼ばれている。日本では遺跡から発見されるのは、この木簡がほとんどで、竹簡の発見は余り聞かない。中国ではむしろこの竹簡が主流のようで、竹の札を何枚も重ねて、一冊の書物にしていた。

紀元前500年前後、孔子が生きていた頃はまだ紙の発明もなく、論語とか四書五経などは、そうした竹簡の書物で、竹の束をバラバラめくって読み進められたのだ。それ等の書物は短編ではなく、いずれも大部の書物であり、竹べらの数も相当な数量になったと思うが、その分厚い竹べらの束を持ち歩いていたのだから、古代の人々の書物にかける情熱は現在人の比ではなかっただろう。

紙が発明、発見されたのは、漸く紀元になる頃で、秦の始皇帝が中国を統一する数十年前のことだった。紙の発見により、印刷が急速に発展し、百花繚乱、百家争鳴の様相を呈していたが、始皇帝は、それ等、曲学阿世の徒を一掃するため、焚書坑儒、と言う全く大胆な当時の文化大革命を行い、紙に書かれた本を一掃した。勿論その中には竹簡なども含まれていた。云わば毛沢東流思想統一を2000年以上の前に行ったのだ。いや、それは逆か。毛沢東が非林非孔と言って、2000年前の始皇帝を真似したのだ。

この部屋では、その始皇帝焚書坑儒の難を逃れた竹簡が沢山展示されている。いずれも複製なのだが、漢字が古代文字で、自分には全く読めない。今の中国人も同様だろう。こうした2000年以上目の古代字が読めるのは、字源の白川博士とか、ごく一部の限られた中国人研究者位だろう。しかし、文字は読めなくても、こうした古代の文化、古語に触れられたことは良かった。良い勉強になった。



古代の囲碁も展示されている。18路なら今と変わらないが・・。
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ああ、これは竹簡の束だ。本になっている。
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こんな風に短冊を開いて、読んでいたのか。。
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束にして丸めたり、箱に入れて保管していた。
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まあ、眺めていて、興味は尽きないが・・
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